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書評
2017-03-09 23:23 by 仁伯爵

4年ぶりの新作

村上春樹著「騎士団長殺し」を読んだ。第一部 顕れるイデア編と、第二部 遷ろうメタファー編の全2巻の長編小説である。本の帯には「『1Q84』から7年」とあるが、新潮社から出た村上春樹の長編小説に関しては確かにそうだが、その間に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」があるので、4年ぶりの新作長編小説ということになる。今作はファンタジー要素が抑えられた前作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」とは違い、ファンタジー要素全開で前作で物足りなさを感じたファンも納得の村上春樹ワールドを堪能できる作品となっている。相変わらず何を示唆しているのか訳の分からない作品ではあるが、前作に比べるとだいぶ詳しく作者が何を書いているのかが説明された作品となっており、だいぶ親切なつくりとなっている。明らかにするつもりのない謎を乱暴にまきまくるのではなく、できるだけちゃんと種明かししますよ、という姿勢が感じられた。

過去作品と共通するモチーフの大量投入とサービス

昨夏に大ヒットした「君の名は。」が新海誠監督の過去作品のモチーフを総動員した上に、エンターテイメント色を加えるという観客向けサービスを行った作品であったのと同様に、「騎士団長殺し」も過去の村上春樹作品からの要素を大量に投入し、何を表現した作品なのかについて説明するという読者サービスを行った作品である。年端もいかない少女に導かれる主人公という構図は、「ダンス・ダンス・ダンス」、「1Q84」で、仕事を放り出しての逃避行は、「羊をめぐる冒険」、「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」などで、抽象化された不思議な世界をさまようあたりは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ダンス・ダンス・ダンス」のイルカホテルなど、ある出来事を境に世界が前の世界と同一かどうか保証がなくなる感覚は「1Q84」、免色の存在は「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」「女のいない男たち」から、近しい人との死別による喪失感は、「ノルウェイの森」などなど、昔に読んだ作品、とくに鼠が登場するシリーズは記憶がごっちゃになっているので上記には間違いもたくさんあるかもしれないが、過去作品で繰り返されたモチーフをオールスターさながらに導入し、種明かしを行うというサービスを提供しているように見えた。

たとえば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」でシロを暴行し妊娠させた犯人は誰かという解決されない謎があった。今作の主人公も夢の中で妻と交わり妊娠させており、それを夢ではなく現実の事務所で交際していた女性を妊娠させたかもしれないという免色の体験と似ていると語る。色彩を持たない多崎つくると同様に免色は色を免れており、超常的な出来事が登場しない物語として描かれた「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と、超常的な力が働いていない現実の話としての免色のエピソードが重なる。今作の主人公の件と、免色の件と、多崎つくるの件の3つは同じことを示唆するメタファーであると考えられ、今作の主人公は、自分の妻のお腹の子は自分の子供であるという結論に達し、妻とやり直すことになる。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」においても犯人もしくは事件に対する責任の所在は、多崎つくるにあったという解釈でよいということを示している。

イデアとメタファー、作品の生み出し方

過去に繰り返されたモチーフを使って何を表しているのだろうか。それは村上春樹が小説を書くプロセスを詳細になぞっているのだと思えた。イデアから生み出された現実をメタファーの形で作品に落とし込む手順が詳細に書かれている。作品は常に何かを表す暗喩として存在している。主人公が職業として描いていた肖像画は、現実を写実的に描写しながら依頼者の気に入るように過度なマイナス面を抑制しつつ、その中に描く対象の本質をとらえて描いていた。これは外国文学の模倣にすぎないと揶揄され芥川賞を取らせてもらえなかった時期の村上春樹作品の事ではなかろうか。その前には、抽象画を書いており、抽象的過ぎた初期の作品群の事を表しているように感じた。そこから、免色の依頼を受けて描いた肖像画の範疇を逸脱した肖像画によって、たんなる模倣の域を出て、独自の作風を確立していくが、最終的には商業的に成り立つ作品を生み出す生活へと帰っていく。

雨田具彦の病室からの失踪は具体的作品制作のプロセスである。先人の作品から示唆を受けて、ひょっこり顔を出したつたない暗喩を捕まえて、そこから自分の内面世界を旅して代償を払って川を渡り、複数の女性に励まされ、現実の暗喩が暗喩の暗喩になるなどという袋小路に陥らぬように注意しながら、苦しんで作品をひねり出して産み落とす。穴の中に放り出された主人公は、子宮に宿った子供のようであり、自分自身の模写もしくは自分自身として生み出された作品を表している。そして作品は自分だけでは外に出ることができず、誰かに見つけてもらう必要がある。今回は免色がみつけて梯子を下ろし主人公を穴から引き揚げた。そして、作品の形にまとめるという行為はそれまで持っていた自分のリアリティーをアウトプットしてしまう行いであり、それまでもっていたイデアを破壊してしまう行為である。作品を書いた後と書く前で世界が変わったように見えてしまい、同一の世界かどうか疑わしいほどである。しかしその作品を仕上げることで、自分にしか見えてなかったイデアを他人に伝えることができそれが誰かを救う。今回は作品を生み出すことによってイデアを破壊する騎士団長殺しを行うこが、イデアを秋川まりえに伝えることとなり、彼女の窮地を救う。騎士団長殺しが行われた時間と騎士団長が秋川まりえに助言を行った時間に矛盾があるが、イデアは騎士団長自信が繰り返し述べている通り「イデアに時間の概念はあらない」のである。

作中で主人公が過去に書いた抽象画や、肖像画の数々や、「免色の肖像画」は完成した。「雑木林の穴」を描いた絵も完成し免色に渡した。このことは現実を模写し商業的に成り立つ作品も、読者が喜ぶ怪奇譚も完成し終わってしまった課題であるということを表している。残された「白いスバル・フォレスターの男」の絵は自画像を描きたくなったら続きを描くと述べられている通り、作者自身を描くという行いで、もう一つ完成させずに残されているのは、「秋川まりえの肖像」である。自分自身を描くという行いと、女性を描くという行いのみが今後も取り組むべき課題として残されている。そして最後にもう一つ、物語冒頭で顔のない男に守るべきものを守りたかったら肖像をかけと迫られている。これは時系列で言えば、物語が終わった後の話だ。物語の製作途中で持ち上がった新たな課題が、物語を完成させたずっと後に差し迫った問題として浮上している。それが将来的にこれから現れる生み出すべき作品となるのだろう。村上春樹はいやいやながらまだ今後も、自分自身と女性と今作で持ち上がった課題についての次回作を書くつもりのようだ

なぜこの本を書く必要があったのか

主人公は、森鴎外の「阿部一族」を読み返した理由として、「森鴎外がいったい何のために、どのような視点からそんな小説を書いたのか、書かなくてはならなかったのか、うまく理解できなかったからだ。」と述べている。小説が書かれるには何のために書いたのか、書かれなくてはならなかったのかという理由が存在すると村上春樹は考えている。では、「騎士団長殺し」はなぜ書かれたのだろうか。前述のとおり、この作品は過去作品に比べてだいぶわかりやすく親切に書かれており、加えて創作の仕方を惜しみなく伝授するハウツー本のような作りになっているという読者に向けた大サービスが行われている。そして、前作とは打って変わって超常的な出来事を盛り込んだ村上ワールドを展開し、性的な描写もこれでもかというくらいに盛り込まれる。これも読者サービスの一環だろう。これらの大サービスを見るに、村上春樹はこの小説を商業的に成功させたいという意気込みが見て取れる。

さらに、ナチスドイツのウィーン併合や、日本軍の南京入城など、歴史的にデリケートな問題を無理やりに盛り込んでいる。この二つの歴史上の出来事は雨田一族にまつわる出来事として語られるが、物語上配置される必要性が無い。なくてもすべての話が成り立つ。むしろ免色が電話でいきなりウィーン併合の話を始めるあたりは強烈な無理やりさを伴った違和感さえあった。それなのになぜそこまで強引に盛り込まれているのか。理由は二つ考えられる。一つには国際的な炎上を狙っての事。二つ目には国連の示す世界観に従順な作家であるという立場を国際社会に明確に示す必要があったということだろう。

これらによって導き出される帰結として、村上春樹はノーベル文学賞がほしいのではないだろうか。村上春樹は芥川賞の受賞を逃し、国内では賛否両論の作家である。文壇から距離を置いている感さえある。それでも村上春樹が作家として影響力を保持できているのは、海外で一定の評価を受けている事と、新刊を出せばものすごく売れるという事実があるからだ。毎年ノーベル文学賞の候補として名が上がり、海外のブックメーカーでも賭けの対象とされているが、毎年受賞を逃している。去年に至っては文学作家ですらないミュージシャンのボブ・ディランが受賞している。これには誰もが驚いたが、ボブ・ディラン本人が「文学をやっていた自覚はない」と驚きを表明している。これは明確に、ノーベル財団から候補作家への該当者なしの宣告であっただろう。村上春樹がノーベル文学賞を受賞するためには今までの実績では受賞条件を満たすことができていないのは明らかであり、新たなる実績の積み上げが不可欠だ。そのために国際的な炎上を引き起こし、その中で連合国側の立ち位置を明確にしているということが不可欠だったのだと思われる。南京の件に関しては村上春樹の思惑通り、中国と日本で小規模な炎上が起こっている。ウィーンの件では上手くナショナリズムを刺激し、欧州で炎上を起こすことができるだろうか。

どちらにしろ村上春樹の次回作を発売と同時に手に入れて読むということはもうないだろう。よほど評判が良ければ古本で手に入れて暇つぶしに読む程度になると思う。宮崎駿監督の新作にもう心躍らないのと同様に、村上春樹の新作にももう過去作品を超える期待はできそうにない。秋川まりえが免色邸に忍び込んで脱出するまでの下りなど、書き手の集中力が切れているのがありありと伝わってきた。ミスが多く雑なのだ。村上春樹は無事ノーベル賞が取れるだろうか。皆様はどのようにお読みになっただろうか。

2 件のコメント!

  • 騎士団長殺しが行われた時間と騎士団長が秋川まりえに助言を行った時間に矛盾がありました?

    • もう読んだのがだいぶ前なので記憶がおぼろげですが
      たしか騎士団長殺しが行われて騎士団長が消滅した後にまりえ嬢に助言をしに現れていたとか
      そんな感じの時間的前後があったと思います。

      もう読み返して確かめるほどの興味をこの作品には持てませんので、確認はしておりません。
      あいまいな回答でごめんなさい。

      しかしながら、本人が言う通りイデアには時間の概念がないので
      そこで時間的に前後があるかどうかはさして重要ではないと思われます。

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