誤配される哲学書
東浩紀著「ゲンロン0 観光客の哲学」を読んだ。この本は、著者がニコニコ生放送でサブカルや時事問題について面白おかしく語る面白おじさんなどではなく、膨大な知識のバックボーンをもって哲学を行う巨匠であるという忘れられがちな事実を改めて思い知らされる一冊であった。思い付きで書かれタイトルで釣る今時の流行本とは一線を画する。過去の哲学の流れを踏まえた上で緻密に論理が積み重ねられており、袋小路に迷い込んだ現代思想の軌道修正を行う最前線の書だ。その一方で哲学と言えば「ソフィーの世界」を読んだくらいの知識しかない私のような者にも理解できるように参照される哲学者やその仕事について丁寧に説明がなされている。それは著者本人がTwitter上で「ゼロ年代批評とか現代思想とかの知識は要りません。というよりも、下手にそういうこと知っていると、ぼくの試みそのものにまた同年代のさまざまなもののなかに位置づけようとして、目測を誤ると思う。時代とか文脈とか関係なく、じかに哲学書として読む読者に届いてほしいです。よろしくお願いします。」と述べている通り、「直に哲学書として読む読者」には今まで哲学に触れてこなかった層も含まれており、むしろそういう読者への本書における観光客の哲学で云うところの誤配を狙っているからだろう。
前述のとおり私は哲学や思想のバックボーンを持たないので、本書の本質をとらえられたかどうかはわからない。それほどの哲学的な深みのある本なのである。そういう意味で、私が得たゲンロン0に対する理解は、本書の言葉を借りて言うとゲンロン0へたちよった観光客による二次創作にすぎない。このことはこれまでこのブログで行ってきたほかの映画や書籍に対する言及全てに言えることだが、本書では不真面目な観光客の二次創作でネットワークのつなぎ変えを行うことが肯定的にとらえられている。非本質こそが本質にもなりえるのだ。よって、ひるむことなく書評と題し、非凡な著者の哲学を平凡な者が読んだらどのような二次創作としての理解をし、それについてどのように考えどのような疑問を持ったのか述べてこの書を評していきたいと思う。
観光客の哲学が取り戻す現実的な哲学
カントは永遠平和の設立のためには、国家間の連合が必要であると述べ、その連合への参加に条件を設けた。一方でヘーゲルによると、ヒトは愛に包まれて家族の中で自然的な倫理的精神として現れ、次に言語や貨幣を媒介に交流する市民社会に入って特殊性と普遍性の間で引き裂かれた存在となり、やがて国家をつくり国民となることでその分裂を統合し公的な意思を私的な意思として内面化することでやっと人間なるという。国家意思を内面化し、普遍性と特殊性の統合をしないと人間ではなく、ゆえに国家が無いと人間は存在できず、動物になってしまう。さらにその論理を突き詰めると、人が人間であるためには美や倫理や功利の判断とは全く別の行動原理で政治を行い、友敵を峻別する国家が必要だというシュミットの友敵論に行きついてしまう。友敵の区別が無いところには政治が存在しえず、政治のないところに人間はおらずいるのは動物だけとなるので、国家は複数存在せねばならず全人類を包括する国家は存在しえないことになり、カントの永遠平和は設立できないことになってしまう哲学の袋小路に迷い込む。
これを回避するために、人が家族から市民社会へ出た後、国家ではない別の政治組織を考える必要があり、その結果顕れるのが観光客の哲学であるという。永遠平和を実現するためには、人間としてマルチチュードを実践しデモなんかに行くのではなく、動物として郵便的マルチチュードとして観光に出かけるほうが有効であるという本書の主張は現代を生きる者としてすんなり受け入れることができた。しかしそれは、哲学的に私が無学だからなのかもしれない。もし広く一般に哲学的な教育がいきわたっていて、シュミットとコジェーヴとアーレントのような人間の定義が浸透していたら、私は動物になんてなりたくない人間のままでいたいと考えてしまっていたかもしれない。コジェーヴは人間が人間であった時代は1806年のナポレオン戦争でのイエナの戦いで終わっており、以降は人間がおらず人という動物しかいないポスト歴史なのだという。ハンナ・アーレントも、誰でも代替可能な「匿名」の「労働」の対価を得て「消費」するだけなのは人間の条件を満たさず「労働する動物」なのだという。
哲学的に無学な私は、動物とは本能に従うもので、人間とは動物にない大脳を活用し前頭葉を発火させて理性的にふるまう存在だと何となくぼんやりと理解している。そんな視点からみると、人間であるために「他者、異質者であるということだけで」友と敵を峻別し、敵を殲滅するシュミットの友敵論は、闘争本能のままに縄張り争いをする動物の群れにしか見えない。もっと言えば、「我々と同化せよ。抵抗は無意味だ。」とせまるスタートレックのボーグのように人間とは遠い存在に見える。コジェーヴのいうポスト歴史も、人間は次のステップへ進歩したので1806年のイエナの戦いの前と後で人間の定義が変わったというだけの話ではないのか。戦争で殺し合いをしなくても己の生命をかけて環境を変革し続ける精神を持つことは可能だし、その帰結としての技術の進歩があったはずだ。事実、コジェーヴの生きた時代と現代では環境は様変わりしている。むしろ生命を危険にさらすほどの極限状態に身を置いて人間になるというのは、車に軽くぶつけて命の危機を感じさせることで車は危険だということを覚えて盲導犬になる犬のようだ。生命の危機のような極限状態によって発揮されるのは人間性ではなく動物的な本能だ。人間性はむしろ安楽椅子でくつろぎながら生命の危機について深く考えることのできる精神の事ではないのか。匿名の労働を対価に消費を繰り返すのは人間ではないという主張も、それがどんなに単純なルーチンワークであっても、まだ寝ていたいという欲求を理性的に制御して労働へ向かうならそれは立派な人間に思える。寝たい時に寝て食べたいときに食べるなんて豚でもできるではないか。他者と議論などせずとも、自己の中で理性的な思考をしたらそれはもう人間である。
どう考えても我々は人間で、歴史は続いている。マルチチュードの実践としていくらデモを行ったところで道路が渋滞する以上の影響はなにもない。ジャングルの奥の部族が国家に属さないからと言って動物とみなし人権を与えないなどということは倫理に反すると一般的に考えられている世界に生きている。どうしても哲学者たちの言う主張は論理的に正しくとも、現実に則していないように思える。こんな思いつくままに投げかけてみた私の批判は、その無学さゆえに先人たちの議論の土台に立ってはおらず、哲学的な文脈の上にないので、哲学者たちから見ると小鳥のさえずりや獣の咆哮のように聞こえるのかもしれない。そんなものは語りつくされた周回遅れの議論だと言われたらぐうの音も出ない。
しかし、観光客の哲学はちゃんとした哲学の視座からこれらの古いパラダイムを批判する。「シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古き良き「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。」(ゲンロン0 p.109-p.110)と小気味よくばっさり切り捨てる。シュミットとコジェーヴとアーレントたちパラダイムから現実に沿った方向へとシフトしようとしている。語りつくされ、理論をこねくり回し一般人にはなじみのない用語で多弁を弄した挙句に現実から遠ざかってしまい、2000年間進展がないと揶揄されてきた哲学を、机上の空論から現実に沿った形に取り戻そうとしている。観光客の哲学にはそれができる可能性がある。
ネグリとハートの「帝国」についても、国民国家から帝国への移行ではなく国民国家と帝国の二層構造を考えることでより現実に使える概念として議論を先に進めている。それにより、マルチチュードの抱える帝国から発生しつつ帝国に抵抗しながら帝国に依存し続けるという矛盾と、マルチチュード同士の連携は愛やエーテルによって存在しないからこそ存在するという否定神学的なごまかしを、郵便的マルチチュードへ修正することで克服している。マルチチュードとして節操無く連携してデモなんか行ってないで、観光客として物見遊山に出かけ旅行先の二次創作を作成し誤配されることで郵便的マルチチュードになろうぜ!という。原始人のようにリズムに合わせて叫びながら交通の妨げになるよりもよっぽど現実的で、かつ使える論理だ。観光客となって肩の力を抜いて広いろな人と緩くつながることにより人と人、クラスターとクラスターの間の論理的距離を劇的に縮める。同時に観光客として誤配されることで集中してしまった影響力も流動化させることができる。
誰ともつながりたくなくて偶然ここにいる自分
観光客の哲学の最後に符合するものとしてローティーの「リベラル・アイロニスト」について触れられている。公的なものと私的なものとを統一する理論を捨て去り、矛盾と共に生きる態度だ。これは現代を生きる我々には受け入れやすい。本名と紐づけられたFacebookで公的にふるまい、ハンドルネームのみで登録したTwitterでは私的にふるまったりする。fMRIによってリアルタイムに脳の活動を観察できる現在においては、我々の脳は限定された各機能を持った部位の働きを統合することによって一つの人格を形成しているということがわかっている。なので置かれた環境や行う行為によって人格が微妙に異なるのは避けられない。極端な例でいうと自動車の運転をしているときにやたらと強気の人格になる人がいる。複数の言語を話すことができる人は、話す言語によっても人格が変わるという。このような話はローティーが意図した意味とはずれるかもしれないが、そのような前提があれば、公的な振る舞いと私的な信念が異なるのは人間である限り当たり前のことだと受け入れるのはたやすい。そして、公的な自分と私的な自分の分裂を受け入れるということは自分の私的な価値観が偶然の産物であることを認めることであるという。自分が置かれた立場によってコロコロと変わり絶対的なものなど無い。世界は最善などではなく、不完全性にあふれ因果律も成立しないので運命論もありはしない。ある意味で幸運に恵まれてうまくやってきたのと同時に、ある意味においてひどく失敗してしまっている事も含めて、自分が今ここにいるのは偶然でしかないという常日頃から強く持っている感覚と、観光客の哲学は符合するところが多いように感じられた。
その先の言葉
SF小説の<harmony />についてこのブログで掲載した過去記事でも触れたが、SF作家の伊藤計劃氏は<harmony />で人類の大半が意識を捨てて幸せになるという結末になったことについて、一種の敗北宣言としたうえで「その先の言葉」が見つからなかったと述べている。選挙で優秀な政治家を選出して政治をやってもらうという仕組みがうまく機能しないことが明らかになりつつあるが、先進国において民主主義の代替となるその先の言葉は存在しない。世界経済は定期的に大規模な破綻に見舞われるが、現在の金融資本主義はそれを予測することも防ぐ手立ても持たない。リーマンショック後に最新の科学は金融危機が1000年に一度だなどというのはまやかしで、もっと高頻度に現れるのは必然であるということを示したが、資本主義の代替となるその先の言葉は存在しない。本来、思想や哲学がその次の言葉を語って実践をそくしていく役割にあると思われるが、それが機能していない。観光客の哲学は、帝国と国民国家の間を観光客となって行き来する有用性を示しているように、独裁と民主主義の間を観光客のように行き来して共和制を見直して民主主義に修正を図るとか、共産主義と資本主義の間を観光客のように行き来して資本主義に修正を加えるというような使い方ができる。行き来するのは共産主義と資本主義の間でなくても、もっと突拍子もない理論との間でもかまわないはずだ。観光客として不真面目に行き来する中で、実用的な論理へ到達する道筋が開けると期待できる。観光客として誤配されることは行き詰ってしまった現実における数々の問題について「その先の言葉」を形作る基礎となりえるのではないか。やっとこの先を語ってくれるものの登場の可能性が見えた。そんな気がした。
政治的組織体としての拡張された家族へのモヤモヤ
次に第5章からの第2部家族の哲学についてだが、これはまだ草稿ということで序論だけが記されていた。家族の哲学ではリバタリアン的に貨幣を頼りに生きるグローバリズムと、コミュニタリアン的に国民国家をよりどころに生きる人間の間を行きかう観光客は、憐みや共感によって養子縁組することによって拡張された家族を政治的な単位としてよりどころとすると述べられている。自由意志によって集まった集団は自由意志によって容易解散してしまう。より本能に近いところにある家族を核に、憐みや類似性による共感によって拡張することによって、国家に寄らない政治的単位とするという。
しかし、核家族すら維持が難しいこの時代に、さらに家族を拡張して維持できるだろうか。家族から市民社会へでて国家に参加し、国際社会へと出ていくパスが閉ざされたからと言って、家族へ戻るのは進歩ではなく後退ではないのか。本書でも触れられている通り、「人間は人間が好きではない。人間は社会を作りたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。」(ゲンロン0 p.64)という認識は重要だ。人間は社会を作りたくないのになぜ社会を作るのかの答えを、人間になるためだ等というと、シュミットとコジェーヴとアーレントのように論理的には正しくとも現実に則さない。人間が社会を作るのはその必要があったからだ。孤立すると生きていけないからにすぎない。そんな人間を家族的類似性によって家族の中に押し込めると行きつくところは愛憎入り混じる殺し合いでしかない。核家族化が進んだのも今までできなかった家族から出ていくという行動が、できるようになったからだ。嫁と姑はいびりあうし、子は父を殺す。父親殺しもフロイトが唱え、のちに科学的に否定されたエディプスコンプレックスなどではなく、理不尽に個人の人格が制限される家族という距離の中にその原因として父親が存在し、子がそれを排除する力を得てしまうためだ。核家族により二世代が別居することで嫁姑問題が解決し、子が親元から離れることで親殺しを回避できる。家族が抱える問題は家族から距離を取ることで簡単に解決できる。人々にまた拡張された大家族へ戻れというのは、人々に再び殺しあえと言っているに等しい。それを政治的主体として永遠平和の設立が叶うとは到底考えられない。
家族の距離にまで複数の人間が近づいたら、家族的類似性が生まれるほどに価値観を並列化させる必要が生じる。少しでも違う価値観が入り込むと激しくいがみ合う必要性にかられる。家族の距離とはそういう距離だ。よって、家族の中に多様性はない。リベラリズムは多様性をもった他者に寛容になれと言いつつ、違った価値観を激しく攻撃する。基本的人権のように全世界で普遍的な真理があらゆる物事に対して存在し、多様性とはその中でのみ許され、そこから外れた多様性は殲滅するというのが彼らの考え方であるからだ。我々の信じる神を信じないものは殺す。そういう世界だ。家族も家族的類似性から外れたものは家族ではいられない。排除されるか殺されるかの二択だ。家族という排除不可能性の檻の中でなら殺されるしか選択肢が無い。ゆえに親殺しや子殺しは行われる。
人が嫌なら出ていけというときには、背後にどうせ出ていけないだろうから黙って自分に従えという意味が含まれている。そこで嫌だから少し距離を置きますという選択肢があれば軋轢は解消される。だからこそ、人と人の距離を無理やり縮める拡張された家族を考えるのではなく、適切な距離の調節が可能な独立した個人の集団を考え続けるべきだ。独立した個人間を不真面目に観光する中で緩やかな人間関係のクラスターを形成し、さらにそのクラスター間で観光を行うことで論理的距離を縮めつつ適切な距離を保ち、そのつながりの中で育児や介護を行っていく方向性について深く考えていくべきなのではないだろうか。そこで集中してしまう影響力は誤配によって解消されては再集中するという動きを繰り返して健全性を保つはずだ。本書や一般意思2.0で述べられているようなニコニコ生放送による方法では意図的な情報の誘導が可能なので現実性は薄いが、技術的仮定を交えて、もっと普遍的なビッグデータ解析により一般意思をくみ上げることができれば、独立した個人の緩やかな集団が社会を構成することは可能なはずだ。観光客の哲学を読んだ時そのような光を見たが、家族の哲学を読んで光が一気に消えていくのを感じた。
不気味なものとサイバースペース
第6章不気味なものでは、情報技術の発展によって現れたサイバースペースが現実との境目を曖昧にして不気味なものになってしまい、新世界に行けるというよりは幽霊に取りつかれるのだという。不気味の谷現象という議論がある。ロボットを人間に似せて作ると、最初はつたない動作からだんだんと人間に近づく過程で人間はロボットに対して親近感を抱くが、一定以上似てくるとロボットを不気味だと感じてしまい拒絶する感情を抱くようになる。さらにそれ以上に似せて人間と変わりがなくなると再び親近感を抱くという議論だ。3DCGのアニメでは不気味の谷現象が起きるので、セルルックにしてセルアニメに寄せてわざと現実から遠ざける見せ方をしたりする。不気味なものというキーワードが出た時、サイバースペースが現実に似てしまい、不気味の谷を超えることができないという事を言っているのかと思った。しかし違った。フロイトの「不気味なもの」のことを言っているのだ。
功利主義を突き詰めていけば、ピーター・シンガーのようにオランウータンやチンパンジーの成体を人間の胎児や嬰児よりはるかに人格性がたかく法的に守られるべきというような結論に行きつき感情に反する結果となる。ゲンロン0の議論を読んだところ、哲学とは科学的事実と人の感情の隙間を埋める作業に苦心する学問であるように見えた。安全と安心に例えるなら、ジェットコースターは安全に設計されているが、怖いから安心できないと言って乗らない人がいる。飛行機も安全に空を飛ぶが、怖いから安心できないと言って陸路を使う人がいる。科学は安全であるというデータを示すことができるが、哲学は安全と安心の両立を図る。観光客の哲学も、現実に則するという前提の上で、皆が納得する論理はどういうものかが突き詰められているように思う。だとするならば、今後、観光客の哲学を深めていく中で精神分析について考えるのは不可欠なことだというのは理解できる。人が何をどう考えるのかわからないと立論できないからだ。しかし、精神分析を考えるのにフロイトを参照するというのは、最新の宇宙物理を考えるのにコペルニクスの天動説を参照するというのに似ている。フロイトの精神分析には根拠がなく、臨床にはほとんど役に立たないことが現在では知られている。精神分析という分野を作ったという功績はたたえられるべきだが、天動説と同じくのちの科学の批判によって葬られた理論だ。セレブを相手にサロンで披露するには絶好の下ネタであったがために皆喜んだが、男の子は母親に性的な欲望を抱いたりしないし、それが原因で父親を殺したりしない。女の子はペニスが無いからと言って悩んだりしない。トラウマの概念も夢分析も血液型占いと何ら変わらず面白いが根拠がない。フロイトの理論の上に積み上げればどんな理論でも無意味なものになってしまう。精神分析の視点が必要なのであれば、後に連なる研究者達においてもっと有益な研究がいくらでもあるだろう。「本書の続編が書かれるとすれば、それは多かれ少なかれフロイト論にならざるをえないであろう。」(ゲンロン0 p.242補足欄)とあったが、フロイトをほかの研究で置き換えることはできないのだろうか。せっかく観光客の哲学で現実に寄り添った論理を打ち立てたのが、ここから一気にまた机上の空論へ逆戻りしてしまった。観光客の哲学はとても有用だと感じたが、家族の哲学と不気味なものに関しては全く同意できなかった。
ドストエフスキーに関しては私はドストエフスキーの小説を読んでいないのであまり無責任なことは言えないが、不能の父というのはフロイト的に象徴的男根を去勢された父を想定して子供たちに元気にやってもらおうという話かと思ったが、無能な政治家とそれを祭り上げる官僚制という失敗例が頭に浮かび現実にはあり得ないだろう。ドストエフスキーの小説は本当にマゾやサドについて書かれているのだろうか。フロイトを立脚点とした分析にどれほどの正当性を認められるだろうか。
科学と哲学
第6章の冒頭で、著者が情報社会の哲学的解釈を主題にした仕事がいつも中断されている理由として「その理由は、ぼくが、その仕事に着手するたびに、いつも、情報技術の革新性とはそもそもそこで哲学の意味を失うことにあるのではないか、だとすればこの仕事はそもそも無意味なのではないかという疑いに苛まれてしまった」(ゲンロン0 p.228)と語っている。事実、脳の観察が高度化するにつれ心理学のありようは様変わりしてしまった。一方で第4章でネットワーク理論を用いた説明が行われたときも、「フランス系の現代思想が、数学を自己流に解釈して妄言を弄する疑似科学として厳しく批判されたことを覚えている方もいるだろう。そのような読者には、本書の記述もすべて妄言に見えるかもしれない。」(ゲンロン0 p.178)と予防線を張らねばならなかった。これは、フランス系の現代思想が物理や数学の用語や数式を誤用して難解な文章を思想誌に掲載しまくっていることを批判され、それに反論しようとした最も権威ある思想誌「ソーシャル・テクスト」が反論の特集を組んだ号に、物理学者のアラン・カーソルが「境界を侵犯すること:量子重力の変換的解釈学に向けて」という意味のなさないでたらめな論文を投稿したら見事、掲載されてしまったという大事件があったからだ。その信用失墜を経験しているため、人文系の文章の中でネットワーク理論をちょっと引用するだけでここまで卑屈に気を使わなければならない。資本主義の次に来る思想を語るのに数式抜きで論理を構築できるだろうか。ビッグデータで一般意思を吸い上げる研究について、ニコニコ動画を用いるというアイデア以上の事が言えないのも、その先に踏み込むとその瞬間読者が読む価値なしと判断してしまう危険を冒さなければならないからかもしれない。哲学の書に数式を乗せることがリスクなら、哲学はその逆をいくしかない。数式が出てくるのが当たり前の分野に哲学を浸透させていくほかないのではないだろうか。哲学は哲学単体ではもはや立ち行かない。ほかの学問のバックボーンを持ったものが、哲学的バックボーンも併せ持つのが当然の世界になると、これから大企業の寡占状態からSNSをオープンソースの分散コンピューティングで個人の手へと取り戻そうというマストドンのような流れがこれから再度試されていく中で、遠回りをせずにうまく分散が拡散していくように推し進める力になれるはずだ。むしろそういう方向へ哲学に注がれている英知を向けていくべきなのではないか。そういうことを考える一冊であった。皆様などうお読みになっただろうか。