人類のこれまでと現在とこれから
covid-19と呼ばれる新型コロナウィルスの猛威によって、我々人類は今、各個人の物理的移動を制限し感染の拡大を抑え込もうとしている。そんな自粛要請が続く中、いい機会なので買ったはいい物の読まれずに溜まっていた本をゆっくり読んですごした。全世界的な疫病の流行というスケールの大きな出来事が進行しているので、買ったまま積読になっている本の中から、現生人類であるホモ・サピエンスの長い歴史についてのユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21 Lessens」を一気に読むことにした。今こそ人類について考えるべき時だ。たぶん。
「サピエンス全史」はその名の通り、ホモ・サピエンスが地上に現れてから約20万年、他の人類であるホモ属を含めた大型哺乳類を絶滅させつつ、認知革命を起こして文明を発展させていく過去の歴史を上下巻で駆け足でなぞる。「ホモ・デウス」はホモ・サピエンスが起こした認知革命の歴史を踏まえつつ、人類がテクノロジーを使って人を越えた超人、ホモ・デウスが出現するまでの未来で何が起こるかを語る。「21 Lessens」では、認知革命の歴史を踏まえ、超人の出現の未来を見据えつつ、現在の人類について様々な考察を加えていくというシリーズ構成になっている。
過去を語った締めには未来に触れる必要があり、未来を語るには過去を踏まえる必要がある。現在を語るには、過去を踏まえ未来へどうつながるかも考える必要がある。よって3つの本の間で内容が重複する部分も多くいっぺんに読むと冗長であるように感じられるところもあったが、繰り返し語られることで反復学習になったような気がする。この機会に一気に読むことで個別に読むよりも理解が深まったような気がした。今こそ人類とは何か、大上段に構えて問い直す必要がある。そして今回ばかりは問うだけでなく何かしらの答えを出し、次の言葉を見つけなければならない。そのために残された時間は我々が考えているより少ないのかもしれない。
認知革命による連携
なぜ大型哺乳類にすぎない現生人類たるホモ・サピエンスだけが文明を築くことができたのか。「サピエンス全史」によると、それはホモ・サピエンスだけが認知革命を起こしたからだという。ホモ・サピエンスのみ国家や宗教やイデオロギーや法人などなど、物理的には確認できず、情報空間にのみ存在する嘘や虚構や物語を広範囲で共有して信じることができるという能力を手に入れた。この能力によって見ず知らずの人同士が、同じ国の国民だから、同じ宗教の信者だから、同じイデオロギーを信じているから、同じ会社の社員だから、という理由で協調できる。しかも、信じる物語の内容は柔軟に変更可能であるために、蜂の女王による独裁しか選べないDNAに刻まれた協調などとは違い、人類は独裁制でも共和制でも、共産主義でも資本主義でも、大勢に信じられた物語であれば何でも共有して協力することができる。狩りで協力し、農耕で協力し、土木工事で協力しながら信用創造によりパイを拡大させてゼロサムゲームを脱して経済の限界を超え人類は発展してきた。今では誰もが経済で協力し、その連携は全地球規模に広がったのだという。
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)は、ホモ・サピエンスと交配ができるほど生物学的に近い存在だったが、認知革命は起こせなかったという。ホモ・ネアンデルターレンシスはホモ・サピエンスよりも単独での身体能力で勝り、温厚で優しく傷ついた仲間を見捨てずに養う福祉の概念すら持っていたというが、国や宗教や株式会社の概念は理解できなかっただろう。結果、他のホモ属と同じく多くの群れを連携させつつ襲ってくるホモ・サピエンスに滅ぼされた。ホモ・サピエンスよりも優しい彼らが大規模に連携できず滅んだのは、認知革命を起こせていなかったからだと考えられる。ホモ・サピエンスは他の人類をすべて滅ぼし、その他の大型哺乳類もことごとく滅ぼしながら発展し数を増やしてきた。ほかの生き物を積極的に滅ぼす好戦的な性格のために現在唯一の人類として生き残ったのだ。そんな凶暴なホモ・サピエンスたる我々は分らないことは何でも聖典に書いてあると仮定する時期を越えてわからないことがあるという事実を認め、解き明かす努力をする科学の力を借り、自然淘汰ではなく自らを改造して超人に至る道を模索している。
進歩しても幸せになれないホモ・サピエンス
さりとて、今となっては文明の利器のない世界など考えられない。70億人の人口全員が狩猟採集の生活に戻ると地球上の資源はあっという間に枯渇する。人は常に現状に満足しない。仏教では幸せを求めてもきりがないので煩悩を捨てて悟りを開き輪廻からの解脱を目指す。しかしながらゴータマ・シッダールタ以降、悟りを開いた人はいないと聞く。現状に対して常に抱えている不満を改善するというあくなき探求の営みで人類は進歩を続けてきた。そしてついにコンピューターを手に入れ、その進歩に拍車がかかった。このまま我々を取り巻く文明が発達していったらどうなっていくのか。「ホモ・デウス」によると、これまでほとんどの人類の共通の関心事であった飢餓と疫病と戦争があらかた抑え込まれつつある現在、目指すであろう課題は非死(アモータル)、幸福の実現、神性の獲得の3つであるという。これらは予測であって、目指すべきという事ではない。あくまでも人類はそれを目指すであろうと云う事だ。これらの予測は技術的仮定に基づく。核戦争が世界の破滅を意味するようになって大国同士が戦争を行うことはできなくなったが、それは各国のトップが理性的であるという仮定に基づく。食料の生産は70億人を食べさせるに十分だが、依然として飢餓で死ぬ人は存在している。多くの疫病が治療可能となってはいるものの、依然として不治の病は存在し、現在でもcovid-19の流行を世界は抑え込むのに手間取っている。
不老不死に取り組む研究も、人体の拡張を行う研究も、盛んにおこなわれているというだけで実現できるかどうかは未知数だ。科学技術がブレイクスルーを迎えて大きく発展するとき、メディアなどでもてはやされて大胆な未来予想図が描かれ、大抵はそれらが実現されずにブームの終焉を迎える。AIなどはその繰り返しを経験しており、現在のAIブームが第3次AIブームだ。昨今のAIブームや生化学の発展も「ホモ・デウス」で予測された未来を迎える前に失速してしまうだろうか。今回はどうやら行くところまで行ってしまいそうだ。
もし肉体や頭脳を拡張し、人間の限界をはるかに凌駕した知性を獲得したホモ・デウスが出現したら、彼らの意識とホモ・サピエンスの意識は同一だろか。互いに対話は可能だろうか。ホモ・デウスはホモ・サピエンスを、ホモ・サピエンスがホモ・ネアンデルターレンシスを滅ぼしたように滅ぼすだろうか。それともアリを踏み潰すように滅ぼすだろうか。富裕層がホモ・デウスになり始めた時に、中産階級はホモ・デウスになることが許されるだろうか。貧困層はどうだろうか。
知性と意識が分離可能で、知性に意識が必要ないなら、ホモ・サピエンスがデータとアルゴリズムに還元された後、ホモ・サピエンスには理解できないほどに高度化した知性は意識を必要だと判断するだろうか。ホモ・サピエンスが感じる幸福など、古いアルゴリズムの非効率な実装に過ぎないと切り捨てられはしないか。古いアルゴリズムの非効率な実装を切り捨てることは、果たして悪いことなのか。
「ホモ・デウス」で予想されたことが実現するかどうかはまだ未知数だが、そうなる可能性がある以上、それが来る以前に考えておかなければならないことはたくさんある。そしてそれは突然訪れて、一度訪れたらもう引き返せなくなるのだろう。
自由主義の終焉
現在は人間至上主義に基づく自由主義と、資本主義経済が世界を席巻している。「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21 Lessens」によれば、それらは決して自明の正しい結論として突如現れたわけではなかったという。資本主義は一時、共産主義革命によって少数派となり滅ぼされかけていたし、自由主義も帝国主義やファシズムに分派し、それらがことごとく破綻したために最後に生き残ったのだという。
資本主義の国々では、かつて共産主義に滅ぼされかけていた時には労働環境を悪化させすぎると革命が起きてしまうと恐れられていた。その警戒感から経営者が自ら労働環境を改善する取り組みを積極的に行った。しかしその後、共産主義国家が次々と崩壊して以来、恐れるものがなくなった資本家は搾取を加速させている。現在、労働時間の伸びはとどまるところを知らず、賃金の上昇が止まって久しい。低賃金カルテルなどという陰謀論もよくささやかれるが、そんなカルテルなど組まずとも、経営者は人件費を節約する誘惑に常に駆られている。上昇させなくてもいいのなら上昇させないのは当然だ。マルクスの予言通り、労働者は搾取されるが、革命で共産主義国家を今更樹立してもうまく行かない事は人類の記憶にしっかりと刻まれている。問題は再度顕在化しているが、だれも資本主義に代わる次の思想を持ち合わせていない。
自由主義は人の命や人権を何よりも大事なものと位置づけ、問題の解決を聖典に求めるのではなく個人の内なる声に従うべきだという考えに基づいている。選挙で代表を選んだり、消費者に市場を任せたりと、何より自由を尊重してきた。その結果、政治家はポピュリストしかいなくなり、市場は不安定に好況と不況を繰り返した挙句、長い不況に張り付いたままになってしまった。人々は自由主義に失望しつつある。それでも、国により自由を制限されてあれこれ強制的に従わされる世界より、各個人が自由でいられる世界の方が好ましい。願わくば自由を維持したまま、政治や経済の問題を解決したいと望む。
だが、我々に自由が許されているのは、個人の自由を制限して国民を強制的に働かせる国家より、国民の自由に任せた国家の方が強かったという結果に過ぎない。これから国民の自由を制限した国家の方が、自由な国民が沢山いる国家よりも強いという状況が発生したら、国民の自由など簡単に剥奪されるかもしれない。現に中国などは、自由民主主義を掲げる国家では許されないような人権の制限が可能なので、ありとあらゆる技術が先行的に実用化され、世界の最先端を走りつつある。国中のプライバシーを無視してデータを集められたら、人権に配慮し集められるデータに制限のある国の研究者は太刀打ちできない。
人は何も考えず原始的な本能に従うとすぐに他人を縛りたがる。とある道具による殺人が行われたり事故が発生したら、その道具を法的に規制する必要があるという議論がすぐに湧き出す。自分の気に入らないものが人気を博して一般化しつつあったら、あれこれと理由を付けてあれは悪い物だから規制しなければならないと言い始めてしまう。他人の自由を奪うことは他人の人権を制限することに他ならない。そのような原始的な欲求から解き放たれて自由になるためにはリベラル・アーツを学ぶ必要があるとされた。人権は自然科学的に存在するものではなく、認知革命の結果に人類が獲得した共同幻想だからだ。大事なものは壊れないように大切にしなければ壊れてしまう。最近では、リベラルを名乗る人が率先して他人の権利を制限しようと活動をする。リベラリスト(自由主義者)を自称する人々がありとあらゆる規制を求めて声をあげている。このような世界では人権の剥奪など容易だろう。自由主義が世界を席巻した時代は、歴史に咲いたつかの間の徒花だったのかもしれない。
次の言葉の不在
テクノロジーの進歩や、現在の枠組みの限界が明らかになりつつあるが、相変わらず次の言葉は存在しないままだ。ホモ・デウスの存在など仮定しなくても、昨今の世界的不況やcovid-19にとどめを刺されて世界各地で起こる暴動の様子を見るだけでも今の世界の枠組みがもうそろそろ限界を迎えつつあるのは誰もが感じているだろう。
日本の保守政党が自由民主党なのは、この国が自由民主主義の国だからだ。自由民主主義を保守している。それに対抗しようと結成された野党が立憲民主党だ。この国ではすでに国民に主権があり権力者の暴走に歯止めをかけるために憲法が制定されていて、その制限の下に権力者を民主選挙で選ぶ立憲主義の民主主義が成立している。よって、立憲民主党は革新ではなく現在の枠組みを保守している。彼らにも次の言葉はなく、何も革新的な点は見あたらない。さらに言えばあらゆる規制の増設に積極的であるため、自由主義ではないのでリベラルでもない。アンチファシストを掲げてみても、ファシスト党は第2次世界大戦で滅びており、その残党狩りの意味しか持たない。未来を示す指針とはなり得ない。ファシストの、絆をもとに友敵を峻別し見方でないなら敵だという思想は、アンチファシストを掲げる人々にこそ蔓延しているように見える。「フェミニストでないならセクシストだ」とか、「我々に賛同しなければレイシストだ」などとして連携を強要するのは、「お国に協力しなければ非国民だ」という戦時中の絆主義者たちと何が違うのか。女性の権利を守るのも、差別を否定するのも反論の余地なく正しい。だが、その正しさは便利に振り回して陳腐化させていい物ではない。過去の亡霊を振り払おうとして逆に取りつかれていては先へは進めない。原始的な誘惑を振り払うには知性が必要だ。知性を獲得するには知識が不可欠だ。
ITやバイオテクノロジーによって人知を超えた知性が生まれるかもしれず、自由主義が風前の灯火となる中で、では今の自由民主主義と資本主義がうまく行かないなら次はどうすればいいのか。covid-19によるロックダウンや自粛で今年は経済が縮小した。EUではGDPの成長率がマイナス13%になる見通しだという。資本主義は経済成長が前提なのでマイナス成長が続くと破綻する。ご高齢の重鎮が言いがちな脱成長など議論に値しないものに時間を割く余裕はない。技術的な発展によるクラッシュを待たずして、疫病の蔓延によって次の言葉を発見するまでに許された期限が大幅に短縮されてしまった。2021年1月に開催されるダボス会議のテーマは「グレート・リセット」になるという。もう現在の枠組みを保守している場合ではないという理解が世界的に共有されつつある。
恐らくこれから次の枠組みが怒涛のように次々と議論されることになるだろう。そのどれを支持し、どれを支持しないのか、自分の頭で吟味して選ぶ必要がある。有名人が支持したからという理由でそれに乗っかるのは危険だ。自分の頭で考えるためには知識が必要である。知識は道具だ。道具を持たずにくぎは打てないがトンカチがあれば打つことができる。知識を持たずに考えるのは空虚だが、知識があれば自分なりの答えが出せる。いまこそ人類の今までとこれからについて整理する必要があるのではないか。自由になるための技法を身に着ける手がかりとして、これら本を読むのはとても意味のある体験だった。皆さまはどのようにお読みになっただろうか。