- この記事は、映画「ハーモニー」と伊藤計劃著「ハーモニー」および伊藤計劃著「虐殺器官」に関して重大なネタバレを含みます。3作品をご視聴、お読みになった後で記事をご覧になることを強く推奨いたします。
- また、この記事は映画「ハーモニー」について否定的な見解が含まれます。ご気分を害される恐れのある方はご覧にならないようお願い申し上げます。
「虐殺器官」と「<harmony/>」
先日、映画「<harmony />」(ハーモニー)を見てきた。<harmony/>は伊藤計劃氏によるSF小説を原作として、フジテレビのノイタミナという枠組みで製作されるアニメーション映画である。この映画が公開される前に、原作となる小説版<harmony />を読んだ。そのうえで、今回、映画版を映画館で見てきた。
伊藤計劃氏は2007年に「虐殺器官」で作家デビューし、2007年に「<harmony />」を発表後、「屍者の帝国」の原稿30枚したためたところで2009年3月に肺がんのためこの世を去った。そのため、長編小説は、「虐殺器官」とメタルギアソリッドのノベライズ「METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS」、そして今回の「<harmony />」の3作のみである。「屍者の帝国」は伊藤計劃氏の死後、遺族の承諾を得て円城塔氏が長編小説として完成させている。
このうち、「虐殺器官」、「<harmony />」、「屍者の帝国」の3作品をフジテレビのアニメ枠であるイノタミナが映画化しようと言うのが”Project Itoh”であるらしい。当初、「屍者の帝国」、「虐殺器官」、「<harmony />」の順で劇場公開される予定であったらしいが、「虐殺器官」を制作していたアニメスタジオであるマングースが倒産してジェノスタジオへ引き継がれると言う出来事があったため、「<harmony />」が前倒しで公開されている。新版「<harmony />」の伊藤計劃氏への巻末インタビューによると、時代背景は現代から近未来の「虐殺器官」があり、その後アメリカの内乱を発端とする世界の大混乱(大災禍)があり、それが収束した後の物語が「<harmony />」となる。しかし、小説「<harmony />」で語られる大災禍ではアメリカの内乱で小型の核兵器が流出しテロリストや各地の紛争で使用されると語られているが、小説「虐殺器官」では大混乱が起こる前の段階でテロリストが核兵器を使用し、タブーが打ち破られて各国が核兵器を使える兵器として認識しており、「虐殺器官」と「<harmony />」が厳密に同じ世界線で整合性が取られていると言う訳ではなさそうである。
墓標と少女
小説版「<harmony />」はとても素晴らしい作品である。私は小説版「<harmony />」の大ファンだ。当然この映画版にもとても期待していた。だが冒頭のシーンでさっそくその期待は不安に変わる。
この物語は、主人公である霧慧トァンの一人称で語られる。これはこの小説が霧慧トァンが記した報告書の形であらわされているからだ。ハーモニープログラム実行後の意識を無くしてしまった人類にも感情が伝わるように、感情をしるし付けした形式のETML(Emotion in Text Markup Language)というマークアップ言語で書かれたテキストになっている。だから原作小説では冒頭にETMLタグの宣言があり、ETML終了タグで物語が終わる。ところどころ< >ではじまり</ >で終わるタグで囲まれたソースコードの形で記述されている。映画でも冒頭で少女がこ白いモノリスのような装置使って霧慧トァンが記した物語と感情を再生している場面から始まる。映画でETMLをどうやって表現するんだろうと思って居たので、この演出はすごくいいと思った。が、次の瞬間、ETMLを読み込んで感情を出力するはずのその装置の表面になんと、ETMLのタグがそのまま表示される。これは興ざめだ。我々でもHTML(Hyper Text Markup language)でWebサイトを記述し、Webブラウザーに読み込ませて< >で囲まれたタグが表示されたら、ソースコードのどこかにミスがあると思うのが普通だ。映画のエンドロールの最後が</ studio4℃>という終了タグで終わるが、これは開始タグが無いので構文エラーだ。このようなエラーの積み重ねで映画版はタグが表示されてしまっているのだろう、などと憎まれ口の一つも叩きたくなる。タグはマークアップのためにあるのであって、そのまま出力するためにあるのではない。タグなど表示させず、整形されたテキストが表示されていて、冒頭は無表情でそれを眺めていた少女が、物語の最後でもう一度登場した時には無表情なまま涙が頬をつたっているという表現で感情が再生されていると言う事を表せばよかったんじゃないだろうか。
ニジェールの砂漠の民
その後、物語はアフリカのニジェールで砂漠の民と霧慧トァン率いる停戦監視団の違法取引の場面へ移り本格的に物語が始まる。映画版は、ストーリーこそ原作である小説に沿っているが、あらゆるところに要らぬ改変が挟まれていく。原作に忠実なふりをしておきながら、あらゆるシーンに改変を加えている。改変なく原作通りのシーンは皆無だ。
映画版では取引の場所は向日葵畑と砂漠の境界で、ニジェールの砂漠の民が砂漠から現れ、主人公を含む停戦監視団が向日葵畑から現れる。しかし、原作では、停戦監視団が向日葵畑と砂漠の境界で待ち受けているところに、ニジェールの砂漠の民は向日葵畑の中から青い帽子を目立たせながらラクダに乗ってやってくる。その様子を見て霧慧トァンは「蒼き衣をまといて、金色の野から現れる。」と表現する。これは、宮崎駿監督の風の谷のナウシカの「其の物蒼き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結ばん。」という言い伝えのオマージュだ。伊藤計劃氏は生前、映画の評論ブログを運営するなど映画通で知られる人物だ。小説の端々にこういったオマージュがちょこっと挟まれることがある。この向日葵畑も、大災禍で使用されたRRW(信頼性代替核弾頭)という名の核弾頭による汚染を浄化する植物利用環境修復のための改造された”償いの向日葵”だ。そのような背景を、ナウシカの腐海が実は火の七日間で汚染された世界を浄化する役割を負っていたという背景と重ねて描かれている。砂漠の民が向日葵畑ではなく砂漠からやってきたら台無しだ。
さらに、医療パッチと引き換えに砂漠の民から酒やたばこの不健全とされる物資を手に入れる取引が終了した後、小説版では携帯用のパラボラアンテナでISSに乗っている仲間からニジェール軍のWarBirdの接近を知らせる通信を受信して、撤収の準備を始める。映画版ではWarBirdがやってくるのを目視で確認しつつ、そんな切羽詰まった状況なのにトゥアレグの戦士はラクダで霧慧トァンの前までやってきて会話を交わしてから引き上げる。霧慧トァンも急いでWHOの装甲車に戻るでもなくのんびり会話してから撤収していく。目視で武装した偵察機が見えているのにそんなにのんびりしていたら全滅のはずだ。緊迫感がまるでない。WarBirdがスタンドアローンであることには言及されるが、なぜネットワークに接続していないのかという説明はカットされてしまっているのでスタンドアローンの偵察機という不自然さが際立つ。WarBirdを打ち落とすRPGも、砂漠の民たるトゥアレグからもらった一世紀以上前の代物であるはずであるのに近未来的なデザインにされてしまっている。
WHOのキャンプに帰った後、映画版では取引で手に入れた品を霧慧トァンが笑顔で仲間に投げて配っているシーンが出てくるが、小説版では自分の取り分とA君の取り分を確保して自分のテントに先に帰り、あとは好きに分けろと言っている。映画版と小説版では霧慧トァンのキャラクターが大きく異なっている。映画版の方は感情の起伏が激しくすぐに動揺し子供っぽい。原作小説では他人に関する関心が低くしたたかで落ちついた女性のイメージだ。
テントに帰ると上司たるオスカー・シュタウフェルンベルクが待ち受けており、霧慧トァンの周りをくるくる回りながら説教する。このくるくる回るカメラワークはその後も、日本に帰って零下堂キァンとの食事のシーンなどでも多用される。手書きではひどく手間のかかるアングルを3Dで思うさま行うのは気持ちがいいのかもしれないが、見ているだけで酔いそうになる。お説教の中でオスカー・シュタウフェルンベルクは自分が実は綺麗に見えるが72歳だと告白するのもすごく違和感があった。会話の流れが不自然すぎて何をいきなり言い出すんだこの女は、と思ってしまう。原作小説では、霧慧トァンによって「三十代後半の美貌を保ち続けている健康の権化、七十二歳独身。」と語られる事によってこの女上司を快く思って居ないと言う事が説明されるのだ。映画版では無理に七十二歳であるなどという説明は入れなくてもよかったんじゃないのだろうか。小説版にある「戦場を喫煙所替わりにはさせない」という表現も映画版では「戦場を酒場替わりにはさせない」という微妙な改変がくわえられている。タバコがダメで酒がOKだなんてTV局が作った映画だなぁという臭いがしてしまう。
零下堂キァンと御冷ミァハと霧慧トァン
謹慎を食らって日本に帰った羽田空港のシーンでは零下堂キァンが登場する。このシーンが一番しっくりこなかった。レストランでの会話が原作から変更されている。映画版で零下堂キァンは自分はブレーキ役になろうと思ったと語る。そのように振舞ってきたと。原作小説では、ブレーキではなく「バランサーを気取っていた」のだと言う。零下堂キァンは生命主義の優しい世界に違和感を感じてはいたものの誰かを殺したり自分が死んだりしようとは思って居なかったが、ミァハは「すごくギリギリのところに立っていた」ので自分がバランスを取ろうとした、と語るのだ。とても繊細で切実なこの表現をなぜブレーキ役などという軽薄な薄っぺらい言葉に置き換えてしまったのだろうか。さらに、原作小説では、この零下堂キァンと霧慧トァンの昼食は2回に分かれて描写される。霧慧トァンは日本に帰った直後は、ボランティアに参加するなど生命主義の世界に溶け込んでしまった零下堂キァンを軽く見るような態度をとっている。しかし、少し間が空いて、レストランでの会話を思い出すシーンで、零下堂キァンがバランサーになろうとしていたと言う会話が出てきて、軽薄でミーハーに見えていた零下堂キァンの深い考えが開示されてキャラクターの印象が大きく逆転するのだ。その回想を省いてレストランのシーンを一つにしてしまった挙句、解かりやすいブレーキ役などという陳腐な言葉に置き換えてしまった映画版はひどく薄っぺらく見える。ここのレストランの会話に限らず、キャラクターの会話はなぜか原作のセリフを使わず全て改変されている。よって伊藤計劃氏の持ち味がことごとく殺されてしまっているのだ。昼食前の電車での会話でも、原作では霧慧トァンが「キアン、あなたボランティアいってる・・・」と聞いたので零下堂キァンは参加しているプログラムと時間を答えたのだ。これは霧慧トァンが零下堂キァンは大人になって生命主義社会になじんでしまったのかどうか図るための質問であったはずだ。それが映画版では零下堂キァンが聞かれる前に自分からボランティアに何時間通っていると喜々として語っている。この改変も意味不明だ。
「ごめんね、ミァハ」とつぶやいた後、零下堂キァンはナイフでのどの中心を突き、そこから外側へ頸動脈もろともぶった切るのだが、映画版では床に倒れこんだ後も零下堂キァンが「ごめんね、ミァハ」と繰り返し発音するのだ。あの状態で発音などできようはずもない。なぜあんな改変を加えたのか理解に苦しむ。のどを刺す残酷描写には力を入れる癖に、大事なところはガバガバである。
さらに、人体を監視し言葉に置き換えてしまうWatchMeは恒常性を監視するものであるので、成長し続ける子供には入れることができない。人体が健康な状態から反れたら元の状態に戻すのが役割なので、常に変わり続ける成長中の体には入れることができないからだ。それが映画版では、WatchMeは小さいころから体に入っていて成長が止まると活性化するという設定に変えられてしまっている。自殺に失敗した少女時代の3人はまだWatchMeは入れられないはずだが、首のあたりにあざまで作って鎖骨のあたりにナノマシンを入れるためのインターフェースまで描写されている。「こどもがおとなになると、言葉になる」のであり、「こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない」のである。原作の一番最初に出てくる大事な一説さえ映画版は無視し、切り捨てて意味不明な設定改変を行ってしまう。
映画版の霧慧トァンと零下堂キアンの昼食時にミァハから電話で音声通話していることに気づく場面で、昼食を食べるシーンを思い出しながら、零下堂キアンに語り掛ける音声が自分に語り掛けられているように錯覚していく描写として零下堂キアンの姿が御冷ミァハになると言う表現があったが、あれにも違和感があった。零下堂キアンには、学生時代から髪を伸ばした霧慧トァンがミァハに重なって見えたはずで、それを第三者として横から見ている霧慧トァンが、次第に御冷ミァハに攻められている零下堂キアンに自分を重ねてしまうという立場の入れ替わりが起こっているはずだ。
まだまだある意味不明な改悪
霧慧トァンが、御冷ミァハの両親に会いに行く自動磁車の中で一部自分の身分表示を非表示にすると言う描写が映画版のみに登場する。その際、自閉モードなどという攻殻機動隊のまねごとのようなワードを口にする。原作小説にそんな描写は無い。原作では車の中で、昔は拡視が無かったので名刺と言う物で個人情報の開示を行ったと言うミァハとの会話の回想と、プライベートという単語が昔は卑猥な意味ではなかったと言う会話、訪問者が訪れたときにはドアを挟んで向こうの人間がだれかわからなかったのでドアを開けるのは一つの賭けだったと言う会話を思い出している。このドアを開けるのが賭けだったと言うのは、霧慧トァンが御冷ミァハの両親宅を訪問する際に表示される名前で、かつて彼らの娘と共に自殺を図ったその人であると気づかれるか、気づかれないかという小さな賭けであると言う所につながっている。ミァハの母、御冷レイコとの会話も例にもれず細かく全体的に改変されており、娘が大変なことになってる時に倫理センターに相談に行ったり、生府のコミュニティーにセッションを行ってもらうと言った対応をしたというレイコに、「それしか思い浮かばなかったのか」と否定的な感情をあらわにするのも、レイコが名前を見てトァンがミァハと一緒に自殺を図ったうちの一人だと気づかなかったと言う事に不快感を持っていたからではないだろうか。映画版ではそのあたりが自閉モードという意味不明の改悪によってすっ飛ばされてしまっている。
映画版ではレイコとの会話でミァハが献体として冴木ケイタたる人物に引き取られている事を知るところで、いきなり霧慧ヌァザが出てくる。原作ではかなり前の方に、霧慧ヌァザと冴木ケイタが共同研究を行ってWatchMeを作ったと言う話が出ているのでここで二人の名前が出ても何の違和感もなかったが、映画ではいきなりここで冴木ケイタと霧慧ヌァザの名前が出てくるので後付のご都合展開のようになってしまっている。さらに冴木ケイタが霧慧ヌァザの指導教授であるという意味不明の設定追加がされている。原作小説では共同研究をしているだけの対等な立場で上下関係は言及されていない。なぜそんな設定を追加したのかこれもまた意味不明だ。
次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループと父と老人たち
医療都市へと変貌を遂げたバグダッドで、霧慧ヌァザの消息を求めてガプリエル・エーディンの話を聞く場面でも会話が無意味な改変の餌食になっている。ガプリエル・エーディンのキャラクターが小説では礼儀正しい常識人の研究者として描かれているが、映画版では、怪しい悪役として描かれており、いかにも陳腐である。どういう意図でそうしたのか全くの不明である。脳の報酬系を操作する研究の存在と共に近親交配を繰り返し劣勢因子が顕在化た耳の聞こえない人々の島の話も映画版ではカットされてしまっているので、後に出てくる御冷ミァハが劣勢因子が顕在化した少数民族の出身だと言う話も無理やり感が否めない展開になってしまっておりむずがゆい。
再会を果たした霧慧ヌァザとの会話もいちいち細かく改悪されている。映画版では霧慧ヌァザは御冷ミァハがどのようなひどい目にあったのかミァハが語らなかったので知らないと言う。しかしそれは不自然だ。原作小説では、この会話の最後で御冷ミァハはチェチェンでロシア兵の慰み者になっていたことがはっきりと説明されている。映画版ではそのショッキングな設定に言及するのを避けたのかと思ったが、物語のラストで御冷ミァハ自身の口からその様子が告白されるので、この場面で霧慧ヌァザがその事実を知らなかったとする必然性は何もない。映画のスタッフは原作をいじりたくていじりたくて仕方なかったのだろう。さらに映画版のこの場面でひどかったのは、霧慧ヌァザが追ってきたインターポールのエリヤ・シヴァロフに向かって「自分にはもうそんな影響力は無い」という。この発言はその後、螺旋捜査官の会議後に、秘匿回線で巨大な顔面のみのグラフィックで老人たちを登場させると言う場面への布石となっているのだろうが、これもばかばかしい。あれは完全にエヴァンゲリオンのゼーレのまねごとである。老人たちが声を合わせて陳腐なセリフをユニゾンで語るシーンは見ているこっちが恥ずかしくなるような安っぽさだった。
その螺旋捜査官の仮想空間での最後の会議の後の秘匿回線での会話の最後にオスカー・シュタウフェルンベルクが、「もしかしたら世界はあなたの方にかかっているのかもしれない。がんばって。」と激励する。映画版ではそれを聞いた、霧慧トァンが自分は別に世界の事など気にかけておらず、父とキアンを殺したのかもしれないミァハに会って何かしらの結論を得るのが目的だと冷たく言い放って回線を切り、オスカー・シュタウフェルンベルクが悲しそうな顔で「待って!」と叫んで見せる。なんだこのお涙ちょうだいの三文芝居は。イヤミの応酬を繰り返していた女上司に最後にやり返して溜飲を下げさせたかったのだろう。何とも安易な改悪である。原作では霧慧トァンは、世界の事など気にかけておらず、父とキアンを殺したかもしれないミァハに会って何かしらの結論を得ると言うのが自分の行動の根拠だと思って居たところに、いままで嫌味を言い合っていた女上司からの思いがけない激励を受けて戸惑いつつ回線を切るのだ。原作ではちゃんと今までシュタウフェルンベルクがトァンにやり込められていたのはトァンを泳がせるためであり道化を演じていたと言う種明かしがなされ、シュタウフェルンベルクもただの道化ではない。それでもやはりトァンが行動するのは個人的理由によってであり、世界を救うなどというシュタウフェルンベルクが期待した役割を果たすためではないと言うのがこの場面であるはずだ。終盤の大事な場面でもこんなしょうもない改悪を行うのかとげんなりせずにはいられなかった。
チェチェンの山岳でのカタストロフ
最終的にミァハに会うために訪れたチェチェンの山岳では、現地に配属されている霧慧トァンと同じく戦場を喫煙所替わりにしていて、霧慧トァンより要領よくやっている監察官ウーヴェ・ヴォールが、対ロシア自由戦線との渡りをつけるとともに、霧慧トァンの行動原理がどこまでも個人的であることを指摘し、自分の事しか考えてないと言いつつ、そういうのは嫌いじゃないと共感して見せたりする。この場面によって、霧慧トァンがこれから御冷ミァハと会ってやろうとしていることは世界を救うなどと言う事ではなく個人的復讐であると言う事が暗に示されている。この場面を映画版ではカットして代わりにニジェール監視団の手下のチョイ役としてウーヴェ・ヴォールを配置している。そのウーヴェ・ヴォールがチェチェンでも再登場すると言う意味の分からないことになってしまっている。このウーヴェ・ヴォールという重要人物の映画における降格処分には異を唱えざるを得ない。この場面をカットしてしまったがために、先のシュタウフェルンベルクとのお涙頂戴の三文芝居で、個人的動機だと宣言せざるを得なくなっている。しょうもないシーンをたくさん追加するくらいなら重要なシーンを残した方が何倍も物語に厚みを持たせることができたであろうに。
そして最後に、霧慧トァンと御冷ミァハの直接対決となるわけだが、これもひどい。映画版では例によって原作の会話を陳腐化した形で御冷ミァハの意図が語られた後、霧慧トァンが御冷ミァハを銃で撃ちぬくと言う結論は変わらないが、その理由が、「ミァハは変わらないで。あのときのままでいて。」である。さらに、「ミァハ!愛してる!」などと絶叫しつつ引き金を引く。なんだこの安いメロドラマは。
原作での霧慧トァンの結論は、「貴方の臨んだ世界は実現してあげる。だけどそれをあなたには与えない。」だった。霧慧トァンは、御冷ミァハをなぞるように成長し、そして御冷ミァハにとっくに追いついており、そして御冷ミァハの意図を聞き同意することはあっても先導されることは無かった。そして打ち抜く銃弾は二発、一発は父親の分、二発目はキアンの分だ。明かな個人的復讐である。二発の銃弾を浴びせ、ミァハの死を確かなものにしたことで復讐は終了し、その意識が消えるまでの短い間、友人としていつくしむ。ミァハの望み通りコーカサスの山が見えるところまで担いでいき、その意識が消えるのを見届けてほしいと言うミァハの死をみとる。その直後に、霧慧トァンのあずかり知らぬところで老人たちがボタンを押し、霧慧トァンの意識も消失し物語が終わる。この文句のつけようのない綺麗な結末を、質の悪いメロドラマにして台無しにしてしまった映画版に何を感じればよいのだろうか。
新版小説ハーモニーの巻末インタビューにて、伊藤計劃氏は、お決まりの展開が羅列されてそれでも売れるケータイ小説を横目にそれを露骨にやったらおもしろいだろうと言う意図で感情をタグ付けすると言う表現を用いていると語った。キャラクター重視が過ぎるラノベやお決まりの羅列のケータイ小説に対する皮肉めいた意味も含まれているのである。結末を質の悪いメロドラマにしてしまった映画版は小説版に皮肉られた側に成り下がってしまっている。
おそらく映画版は小説版と想定されている客層が違う。小説版はSFファンに向けて書かれているが、映画版は小学5年生女子向けに創られている。そのため百合要素が強調されており、物語も難しい論理構造を無視してより単純な感情に訴えかけるメロドラマとしてありとあらゆるところが書き換えられている。しかしながら残酷描写がたたってPG12指定となってしまい、ターゲットとされた小学5年生は見ることができないと言う悲しい映画である。物語の大筋は変えないことによって原作と同じ物語を装っているものの、その実、中身はまるで別物である。フジテレビというテレビ局の企画であるがゆえに、万人向けにするには想定年齢を下げると言うTV局の要請が無言の調整力として働いたのかもしれない。ともあれ映画版には原作小説に対する愛が感じられない。原作者の死による不在をいいことに、好き勝手にやらかしたようにしか見えない。舞台演劇のようにオーバーな芝居も、意味不明な改悪も、無意味で薄っぺらいオリジナル要素も、あーあ、やっちまったな、という場面の連続であった。
伊藤計劃と不治の病
伊藤計劃氏は病の床でこの物語を記した。資本よりも命が大事であることをどうしようもなく直視したSF作家が健康について突き詰めた結果が生命主義だったのではないだろうか。物語の中では癌は塀の外の人々にしか起こらない過去の病となっている。個人用医療薬精製システムが現実のものとなっていれば、精製されたメディモルによって伊藤計劃氏の肺癌などいとも簡単に治癒しただろう。メディモルのある世界は作者にとって願ってもかなわない夢の世界であったはずだ。不治の病に侵された自分が生き残るためにはどういう世界が必要か。死を前にした自分と同じレベルで命の価値が高く評価され資本を凌駕した世界はどう想定されるか。
それでも「社会実験的な小説」(新版 小説ハーモニー巻末インタビューより)として突き詰めてあらゆる想定をした結果、資本主義が生命主義に置き換わった世界は、「食べ過ぎても死ねず、食べなさ過ぎても死ねな」いディストピアとして描かれてしまう。新版 小説ハーモニー巻末インタビューにて伊藤計劃氏は「なぜ、自分はここにいて、こうして治療を受けているんだろうとか、なぜ今こういう医療体制なんだろうとかそういう所から考え始めたある種、切実なロジック」をキャラクターに代弁させることでエモーショナルになることを期待して書かれている部分があると語っている。治療を受けている自分の状況や医療体制を分析した結果、治せない病が身を蝕む理不尽や、多くの矛盾を抱えた医療体制に思いを巡らせたのではないだろうか。そういった諸所の問題の解決は、メディモルや生命主義が実現した世界でもまだ足りず、さらなる問題が容易に想定されてしまう。すべての問題が解決された、人間が真に合理的な選択を自明のものとして行う世界では人の意識が存在できなくなる。
御冷ミァハは体を売る少女とそれを買う大人が昔は存在していたという話をした後で、「今でもそんな大人がいるんなら、私たちにだって希望が残されているはず。大人になってもいいって思えるはず。」とうれしそうに語る。堕落できない世界で堕落していないことには何の意味もなく清純さえ意味を失う。健康を求めて病気の無い世界を想定してみたけれども、死ねない世界で死なない事には何の意味もなく、その閉塞感は世界を生きる人々にとってストレスになり得る、そんな世界が出来上がってしまう。堕落する可能性がある中で清純さを保って見せ、理不尽に死ぬ可能性のある中で健康を保って見せる事にこそ生きる意味があるが、堕落する可能性、理不尽に死ぬ可能性を残すと言う事は問題を解決しないと言う事に他ならない。世界に生きる価値を残すために解決できる問題を意図的に放置するまたは意図的に問題を作る世界にもやはり歪みは大きく生きる意味は無い。故に人類が前に進むには意識を捨てる以外の結末は無い。
人類が意識を捨てて前へ進むと言う結末について、作者の伊藤計劃氏本人は、「やっぱりあいまいなところに身を置きたいと常に思っていて」と語っている。問題をすべて解決して「人類はいまとても幸福だ」と言える。しかし現在を生きる我々から見ると本当にそれでいいのかという疑問が残る。論理的には正しくても感情的には納得がいかない。意識を捨てれば問題が解決するのを意識が嫌がっているだけだ、と考えると進化の過程で獲得した器官に過ぎない意識など捨ててしまっても問題は無いのかもしれない。
「虐殺器官」では、クラヴィス・シェパードはジョン・ポールの虐殺の言語を使ってアメリカで内乱を引き起こして物語が終わる。「<harmony/>」では、御冷ミァハが目論んだハーモニープログラムの実行を霧慧トァンが容認して人類の大多数の意識が失われる。この二つの結末について、「虐殺器官」と「<harmony/>」では人間の意識や思考が進化の過程で獲得したものでしかないという認識まで到達したその次にくる言葉が、「なかった」という結論であると巻末インタビューで語られている。それが「ある種の敗北宣言」でもあるという。伊藤計劃氏自身、どこまでテクノロジーの進化を想定しても、「その先の言葉」が見つからないと言う行き詰まりを感じていたのかもしれない。このインタビューの中で次回作について歴史ものになると言及されている。「虐殺器官」では戦闘しか描かれなかったが、次は戦争を歴史もので描く予定だと言う。それが、「屍者の帝国」となるはずだったが、冒頭30ページを記したところで伊藤計劃氏はこの世を去った。もしも「屍者の帝国」を完成させ、さらにその次の作品があったなら、「その先の言葉」を見つけて語って見せてくれたことだろう。
老人たちがボタンを押し、人類の多くが意識を消失させた後も、WatchMeを入れていないバグダッドの塀の外の人々や、WatchMeを入れていてもサーバーにつながっていないニジェールの砂漠の民はすぐには意識を失うことは無いだろうし、彼らが哲学的ゾンビをそれと見破るのは論理的に不可能だろう。意識を持った人間と、持たない人間が混在しているがそのことに誰も気づかない世界では何が起こるだろうか。この物語の結末の先を考え続けることによって、きっと「その先の言葉」を見つけることができるだろう。我々の世界のテクノロジーは物語ほどには進んではいないが、いつか物語に追いつく頃には何かしらの答えが出ているのだろう。我々はSF的思考実験を用いて先んじてそこに到達することができるはずだ。