今までの新海作品+エンターテイメント
ついに、「君の名は。」を見てきてしまった。ジブリアニメを除いては空前の大ヒットとなったこの映画に、はじめはあまり食指が向かなかったのだが、私的な出来事でむしゃくしゃしたのでほかのアニメ映画とは明らかに違う客層の中へ果敢に突撃し見てしまった。結果、とてもよかった。面白かったのだ。新海誠監督の作品でここまで楽しめるとは思っていなかった。正直意外であった。ラブコメであり、SFであり、謎解きであり、アクションでであり、徹頭徹尾エンターテイメントであった。全盛期の宮崎作品のように、どこから見ても面白いのだ。どの箇所からでも見たい。2回目、3回目を家で映像ソフトで見たとしても、ここ面白くないから飛ばそう、となるであろうシーンがない。今までの新海誠監督の作品は、「秒速5センチメートル」にしても、「言の葉の庭」にしても、「星を追う子供」にしても、「雲のむこう、約束の場所」にしても、残酷な物語を度を越した美しい絵で見せつける作品というイメージだったが、「君の名は。」は最初から最後まで楽しかった。楽しくない時間帯がなかった。逆に言えばこの作品が面白かったからと言って、この楽しさを期待して新海誠監督の過去作品を見ることはお勧めできない。今作品は今までの作品から面白い要素を集めて作られている。年上女性との淡い恋は「言の葉の庭」、聖地で彼岸と此岸を渡って起こす奇跡は「星を追う子供」、法を破って行う計画の実行と約束の場所での再会は「雲のむこう、約束の場所」、残酷な世界の中で魂の半分を分け合った運命の人を求め続ける姿は「秒速5センチメートル」、それぞれの作品の面白い部分を惜しみなく贅沢にちりばめたうえで、エンターテイメントに徹している。これだけの要素がちりばめられていれば、どれかが雑になるのが道理だが、要素一つ一つがすでに過去に別の映画として成立するほどに練り上げられており隙が無い。そのあたりは、『最新作は「新海誠のベスト盤」にしてほしい』(小説版「君の名は。」p.259 解説より)という川村元気プロデューサーのオーダーの通りなのだろう。一つ一つが映画一本分になりえる程の要素が惜しげもなく「君の名は。」という映画を盛り上げるためにふんだんに使われている。そんな手放しで大絶賛できる今作品について、語りたいことが山ほどあって全然まとまらないので、以降とりとめもなくメモのように書きなぐってみようと思う。
薄れゆく記憶と隕石と美しくもがく姿
瀧と三葉は入れ替わりの記憶を失うが、記憶を失わなければならない理由がいくつかある。一つには、入れ替わりが夢だから。祖母一葉が「いくら特別でも、夢は夢。いつか消えてまう。」という通り、夢の記憶は覚めたら消える。だが、意識して覚えておこうすれば、記憶はとどめることができる。糸守町に隕石が落ちて入れ替わりが途絶えた後、瀧が二~三週間記憶をとどめおいて飛騨に三葉を探しに来ることができたのは、記憶の喪失具合が夢を忘れるのと同程度のものだったからだと考えられる。
二つ目には、ご神体がある小川の彼岸は隠り世で、此岸に戻ってくるためには自分の一番大切なもの、自分の半分を置いてこなければならないから。ご神体のある祠の中で口噛み酒を瀧が飲んで最後の入れ替わりをしたとき、天井の彗星の壁画が体に入ってくると同時に三葉の記憶を見るが、その中で三葉が生まれへその緒が切られるカットが映る。小説版では、「最初は二人で一つだったのに、つながっていたのに、人はこうやって糸から切り離されて現世に落ちる。」(小説版p.149 第五章 記憶より)と表現されている。人は、生まれながらにして大部分を失っている。さらに小説の冒頭では、「私は大切な誰かと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたくかたく結びついている。」という夢を見て、目を覚まして一人であることに気づき涙する。生まれるときに失った大部分を埋めるのが、運命の相手であり、運命の相手とは魂の片割れである。隠り世(彼岸)からうつし世(此岸)に帰ってくるためには、自分の半分を置いてくる必要がある。一度目は口噛み酒を引き換えにしたが、二度目は片割れとしての運命の人を失う、つまり三葉の記憶を即座に失った。
三つ目には、黄昏時(カタワレ時、誰そ彼時)に出会ってしまったから。「言の葉の庭」でのどん底から元気に回復したユキちゃん先生が説明した「人ならざるものに出会うかもしれない時間」としての黄昏時、糸守あたりでの方言のカタワレ時に、魂の片割れである瀧と三葉が出会い言葉を交わす。黄昏時はカタワレ時であると同時に、彼は誰時であり、「人の輪郭がぼやけて、彼がだれかわからなくなる時間。」である。よって、日が落ちれば三葉も時間とともに瀧の名前を忘れてしまう事になる。
カタワレ時の出会いの後の場面は小説の第七章にあたるが、ほかの章に比べて圧倒的に短いこの章は「うつくしく、もがく」という表題がつけられている。隕石の落下が押し迫る中、消防の協力が得られないとみんなの避難が完了しないにもかかわらず、頼みの町長である父親は電波ジャックした避難誘導の放送を止めてしまうなど、期待した動きとは真逆の行動に出ているという絶望的な状況で、瀧の名前を必死に思い出そうとしながら、掌のメッセージに後押しされた三葉が父親に向き合いに行く姿を持って美しいと形容するのである。町を救ったか否かよりも、救おうとしてもがく姿、名前を思い出そうとしてもがく姿にこそ美しさの本質がある。よって、この章では避難誘導がうまくいったのかどうかの結果が明らかにされず次の章であっさりとその結果がモノローグで語られることになる。
大きな繰り返しと小さな繰り返し
物語の中でティアマト彗星は千二百年周期で地球に最接近するが、糸守の地に隕石を降らせたのはこれで三度目である。落ちた隕石でたくさんの人が死に、湖になって魚をもたらし、隕鉄が富をもたらし集落が栄えるという行程を二度繰り返し、一度目はご神体のあるクレーターを作り、二度目で糸守湖を形作った。この一定の間隔で起こる災害を千二百年後の人々に伝えるために、文字で残すよりも長く残る方法として、「彗星を龍として、彗星を紐として、割れる彗星を舞のしぐさに」(小説版p.148 第五章 記憶より)という手段をとった。もしそれを文字だけで残そうとしていたら、風呂を焚きそこねて大火事を起こした草履屋の山崎繭五郎の大火によって失われていただろう。大火によって古文書が焼失したことで組紐の模様や舞のしぐさの意味は失われたが、なぜそれをするのかわからないまでも、伝統として受け継いでいくことで結果として町民を救った。
意味が失われてしまった行いというものは現実にもしばしば見かける。歴史があるものももちろんそうだが、もっと身近にもある。たとえば、IT関連でいえば、”おまじない”というものが存在する。プログラミングするときにプログラムの冒頭に書く宣言文などを”おまじない”などという。ソフトウェア設定などで、設定ファイルになぜかその一文を追加しておかないとエラーになるという一文なども”おまじない”と呼ばれたりする。もちろん、コンピューターの世界なのでその一文一文には意味があり、理解したうえで扱うべきだが、基礎的な前提を整えることよりもITを使って行う目的のほうに注力したいので、そのような部分への理解はどうしても後回しになりがちである。”おまじない”を施してもうまく動かないトラブルに遭遇した時に初めて多くの人は”おまじない”が持つ意味を紐解いて問題解決に挑む。「形に刻まれた意味は必ずよみがえる」のだ。
組紐の文様や、舞のしぐさや、口噛み酒を奉納する意味の理解は失われても、口噛み酒を奉納する儀式が残ったことにより、土地の氏神であるムスビと宮水家の巫女の魂が結ばれ、入れ替わりの夢を千二百年後までつないでいき、三回目でやっと死者0を達成する。その三回目も、一度は瀧と三葉がそれぞれの入れ替わり人生を楽しむだけで漫然と過ごした結果、糸守町の三分の一の人間が死んでしまい、秋祭りの日をやり直して”再演”し、やっと死者0の未来を確定させる。糸守の人々を救うに至る流れは祖母一葉がいう、「よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、またつながり、それが組紐。それが時間。それがムスビ」という通りである。そして、寄せ集めた時間を切り貼りすることで捻じれて絡めさせ、戻して、つなげる、という行いは物語作りそのものでもあるといえる。映画パルプフィクションに代表されるように、時系列通りに語れば何でもない話の時系列を入れ替えることで、そうだったのかという気付きと、お前がそれを言うのかという意味の変化などが巧みに引き起こされて、稀代の名作となる。何度も繰り返し映画を作り、その一つ一つの中で戻ったり進んだりしながら完成させて、また次の映画を作っていく。映画に限らず仕事でもプロジェクトでも何度も繰り返しその中で行ったり来たりしながら少しずつうまくやっていけるようになる。その行いすらもっと長いスパンで繰り返されてきた営みの一部でしかない。大きくなればなるほどその意味は捉えづらくなるが、理解することができれば我々はもっとうまくやれるのかもしれない。
運命の人の存在の肯定と、運命の二人が結ばれることの否定と肯定
「君の名は。」以前の新海作品は、悲観的なロマンチストの物語であった。運命の人が明確に存在して、奇跡も起こるが、運命の人とは決して結ばれず、奇跡が自分の都合の良い方向に働くとは限らない。「雲のむこう、約束の場所」では、最後にはヒロインの姿は主人公の隣にはなく、「秒速5センチメートル」でもヒロインは幸せな結婚をして家庭を築こうとしているが、主人公は一人きりで在宅でシステム開発をしている。「言の葉の庭」もヒロインは実家に戻り、主人公は東京に残る。「星を追う子供」でも、妻をよみがえらせようとした教師は奇跡を起こしかけるが結局失敗し目を失い、主人公は、ヒーローと教師をアガルタに残して地上へ帰っていく。むしろ主人公の運命の人はヒーローの兄弟であり物語の前半で死んでしまっている。
これまでの新海作品の主人公たちは、陰鬱として絶望していて、精神世界のどん底の近くにいる。穴の底から光のさしてくる上の世界を見上げた景色が、新海監督の描く色彩と光り豊かな世界なのであろう。限界まで沈んで何かをあきらめてしまった心は、すべての煩わしさから解放されてとても静かで、ドロップアウトした後には日常の風景すらまぶしく輝いて見える。新海監督の描く過剰に色彩豊かで光が溢れすぎている絵は、そんなときに見る景色に似ている。絶望的なシチュエーションに色と光が溢れる美しい絵が重なることでとてつもない説得力と迫力を有していた。
しかし、そういう悲劇の世界は文学的で美しくはあるが楽しくはない。悲劇の美しさや心地よさを楽しむのは、ほどほどにしておかなければならない。どっぷりつかってしまうと「甘き死よきたれ」などと言い出しかねないので危険である。それゆえ、悲劇に酔うものに対して人は本能的に否定的な感情をもつので一般受けはしない。かつて「秒速5センチメートル」が劇場公開されていた時、当時私が大好きだった人に「秒速5センチメートル」を見にいこうと誘ったところ、「映画のチョイスがおかしい」と苦言を呈されてしまった。スタジオジブリの「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」もヒットしなかった。庵野秀明監督の「ヱヴァンゲリヲン」は圧倒的な演出のカッコよさでダウン系ヒーローの物語を大ヒットさせてしまったが、庵野監督はその後、悲劇の世界にどっぷりはまってしまったファンの姿に恐れおののき、旧劇場版などでは自らのファンに冷や水を浴びせ現実の世界に連れ戻すことに苦心している。
ただ、新海誠監督自身は、「自分ではハッピーエンド/バッドエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速5センチメートル』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって。」(劇場パンフレットp.20 監督インタビューより)とか、「『言の葉の庭』でも幸せな気持ちで劇場を出ていただける作品を目指したつもりだったんです。でも、人によってはもやもやしたという話も聞いて。」(公式ビジュアルガイドp.60 新海誠インタビューより)と語っている。意識して悲劇を描いていたのでははない。新海誠監督の中では世界が残酷なのは大前提なのではないだろうか。当たり前に残酷な世界で生きる人の物語を書いたら、悲劇と受け取られてしまったということであるとするならば、「君の名は。」がエンターテイメント作品として大成功を収めたのは、やはり物語を作った新海誠監督の心境の変化に依るところが大きいのであろう。「今だったら、ど真ん中のエンターテイメントがつくれるんじゃないか、と。」(劇場パンフレットp.18 監督インタビューより)と語られている通り、「君の名は。」は意識してエンターテイメント作品としてつくられているが、それだけなら「星を追う子供」でもジブリ作品のようなエンターテインメントを目指していたことは明らかだが、「星を追う子供」はさほどの成功を収めているようには見えない。一人でPC1台を使って作られていた「ほしのこえ」から、だんだんと製作スタッフが増えていき、評価も高まるにつれて社会にコミットする部分が大きくなっていった過程が、新海作品のなかに登場する希望の分量と比例しているように思えた。技術力の高いスタッフをそろえられるほどに評価も高まって残酷な世界でやっていけるだけの力を蓄えた今だからこそ、「今だったら、ど真ん中のエンターテイメントがつくれるんじゃないか」ということなのだろう。「君の名は。」の世界も基本的に残酷である。三葉の祖母一葉も入れ替わりを体験していてその相手は運命の人であったはずだが、「覚えとるんは不思議な夢があったということだけ」という通り、その相手と結ばれることはなかった。父と母二葉も、若くして死別している。瀧と三葉も、すべての謎が解けて出会うことができたのに、その記憶は容赦なく奪われてしまう。絶望的な状況の中で三葉は父を説得に行くが、その説得の成功は物語の中には描かれない。瀧は就職活動に苦戦しやっとの思いで内定にこぎつけるが、内定が決定した喜びは描かれない。残酷な状況の中でもがく姿の美しさがこの物語の主題だからである。その美しさを描いた後に、三葉と瀧が出会えるかどうかは新海監督にとってどちらでも物語は成立すると考えられていたのではないだろうか。
五年後に話が飛んだあと、瀧が就職面接で苦戦する姿が描写されたとき、「秒速五センチメートル」の世界に来てしまったと誰もが思っただろう。歩道橋で瀧と三葉がすれ違ったときは、絶望のあまりに叫びだしてしまいそうだった。それだけに行違う電車で互いを見つけた時の喜びはひとしおであったが、やはりすれ違ったままなのではないかという疑念がぬぐい切れず、階段で二人がうつむいたまま通り過ぎた時にはもう絶望しかなかった。三葉は「会えば絶対にわかる」と確信をもって会ったにもかかわらず分かってもらえなかった過去があるので、三葉から声をかけることはできない。瀧は女性に対してヘタレなのでそのまま立ち去ってしまうかもしれない、もうだめだ、と思ったときに瀧が声をかける。そこに得も言われぬ心の浄化があった。今までの新海作品を追ってきたものであれば誰しもがカタルシスを得たはずだ。しかし新海誠監督にとっては、そこで出会うかどうかは大した問題ではなかったのかもしれない。これまでの作品も、今作も、うつくしくもがく姿を描くことに主題が置かれていて、今までの作品と今作との違いなど監督にとってはエンターテインメントのど真ん中を目指したかどうかの違いでしかなかったのであろう。
年上好きの新海誠監督が切り開くアニメ映画の未来
庵野秀明監督はエヴァンゲリオンの新劇場版で、序と破ではエンターテイメントに徹することに成功したが、Qで見事に失敗した。宮崎駿監督も晩年になればなるほど、エンターテイメントからかけ離れてしまった。クリエイターにとってエンターテイメントに徹し続けるというのは我々消費者が思う以上に難しいのかもしれない。個人的に「君の名は。」のようなエンターテイメント作品を連発できれば、新海誠監督は宮崎駿監督を超えられると思う。作品単体で言えばすでに超えている。確かに美しくはあるがいつまでもハウス名作劇場の延長線上のような昭和の絵のジブリを超えて、次の時代の絵へと抜け出してやっと次のステージが見えてきたのではないかと、いちアニメファンとしては思うのである。宮崎駿監督は自他ともに認める悪い意味でのロリコンである。庵野秀明監督の描くヒロインもミサトさんを除いてことごとく若い。だが、今作を見てわかる通り、奥寺先輩も瀧の年上だし、ユキちゃん先生もすごく年上である。三葉も三年のタイムラグを経て実際に出会うときには瀧の三つ年上である。新海誠監督は年上好きとみて間違いない。ジブリに引導を渡し、ヒロインの低年齢化に歯止めをかける、この流れに期待せずにはいられないのである。皆様はどのようにご覧になったであろうか。
10/05追記
ご質問への回答コーナー
三葉と瀧は何をきっかけに恋に落ちるのか
@HundertSteine 一つ質問があります。この2人は何がきっかけで恋に落ちるのですか?結果には必ず原因があるとかのガリレオの湯川学准教授も言っています。が、この2人の恋には原因が無いように思えます。そこが無いのでスッキリしなくて「実に面白くない」のです。
お教えください。— 藤原不平等【ふじわらのふへと】 (@MA3290) 2016年10月4日
一つ質問があります。この2人は何がきっかけで恋に落ちるのですか?結果には必ず原因があるとかのガリレオの湯川学准教授も言っています。が、この2人の恋には原因が無いように思えます。そこが無いのでスッキリしなくて「実に面白くない」のです。
お教えください。
物語での恋の描き方
物語において人が人に恋に落ちる描写というのはいくつかのやり方があると思います。
- 出会った瞬間に恋に落ちているパターン
- 恋に落ちるきっかけのエピソードをわかりやすく書いてしまうパターン
- 二人が時を共に過ごし徐々にひかれあったのちに、好きだと自覚するエピソードを描くパターン
1.は、ロミオとジュリエットやシンデレラのように、あった瞬間に恋に落としてしまうパターンです。これはわかりやすいと思います。2.は、出会ったときは意識していなかったり、評価が低かったりするが、不良に絡まれているところを助けられたり、皆に責められているところをかばわれたり、といったわかりやすいエピソードを挟むことで強引に恋に落ちたことにしてしまうパターンです。3.は、男女が自然と時間を共有していく間に本人たちも無自覚のうちにだんだんと好意を持つようになり、何かのきっかけで引かれていることを自覚するパターンです。
1と2については、おとぎ話やトレンディードラマや頻繁に使われる方法で、わかりやすいです。しかし、一目あった時から恋に落ちることや、わかりやすいエピソードで恋に落ちることなどは、現実に起こればドラマチックではありますがなかなかなそんなことは起こりません。物語の中だけのデフォルメされた表現として、注意して扱わなければ安易でチープなシナリオになってしまいます。
「君の名は。」では3のパターンが採用されています。三葉と瀧は入れ替わりによって相手の生活のすべてをあらゆるプライバシー守ることが不可能なレベルで共有します。その中で、はじめは相手の生活を楽しむと同時に自分の生活が侵されていくことにお互いにストレスを感じますが、瀧はテッシーやさやちんと学校で接し自販機前にカフェを作ったりして、おばあちゃんや妹と日常を過ごし、ご神体への奉納の登山などで心の交流があり、三葉は、高木や司、奥寺先輩とバイトで交流し、父親とも霞が関の職場見学へ行くなど、周りの人間に愛されている事に触れ親近感を抱いていきます。そのなかで相手の人生で起きる出来事を自分の出来事として感じるように心境が変化しき、三葉が奥寺先輩とのデートを勝手にセッティングした時には、「デートが終わるころには彗星が見えるね!明日が楽しみ。どっちになってもがんばろうね!」というメッセージを瀧に残します。この状態は、小説版の冒頭に出てくる、「私は大切な誰かと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたくかたく結びついている。」状態です。この状態に戻りたくて、記憶をなくした後も魂に刻まれた喪失感から三葉と瀧は相手を探し求めるわけです。
目覚めたときの涙と、好意の自覚
祖母一葉に「夢を見ておるな」と指摘された後、目を覚ました瀧と三葉は涙を流しています。これは、人格の記憶にはありませんが、この入れ替わりが最後になるということを、魂の記憶が知っているからです。瀧と三葉が入れ替わりを行う運命共同体であれば、瀧が奥寺先輩との恋を成就させることは瀧と三葉共通の宿願です。しかし、もう二度と入れ替わりが起こらず、瀧と三葉が別々の人間になってしまうのであれば、奥寺先輩と瀧がうまくいくことは三葉の失恋を意味します。いままで運命共同体という恋人なんかよりももっと強い結びつきで優位に立っていた三葉が、一気に他人になってしまう状況に追い込まれます。そして、三葉は焦燥感にかられ、自分が行ってどうするのかと自問しつつも東京へ行き、瀧にわかってもらえず、失意のうちに髪を切ってくれと祖母に頼み思いを断ち切ります。そのため、本当の最後の入れ替わりは三葉らからではなく、口噛み酒を飲んで三葉の力を借りた瀧のほうから行われる必要がありました。
同様に、瀧の魂もこれが最後の入れ替わりだと知っているので涙を流しますが、瀧の人格はそれを知るはずもなく、奥寺先輩とのデートという差し迫った緊急事態に対処することが優先され、あわただしい一日を過ごしますが、最後には奥寺先輩に、「きみは昔、私のことがちょっと好きだったでしょ?そして今は、別の好きな子がいるでしょう?」、と指摘されてしまい、三葉への好意を自覚します。奥寺先輩は三葉によって変えられた瀧のことが気に入っていたのであり、自分といるときの瀧には魅力を感じていません。なので、奥寺先輩は瀧が飛騨へ三葉を探しに行くときにはついてきます。三葉のために必死になる瀧の姿は奥寺先輩にとってに魅力的だからです。
前前前世
では、なぜ瀧と三葉はの魂はあれが最後の入れ替わりだと分かったのでしょうか。それは、瀧が前前前世から生まれ変わりを繰り返しているからです。口噛み酒を作る儀式の後で着替え終わった帰りに妹とともに階段を降りた後、三葉は、「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と神社の鳥居の下で叫びます。その願いはかなえられ、東京のイケメン男子、瀧に生まれ変わります。このセリフは、女子高生が言いそうなセリフとして配置されているわけではなく、物語の必要上配置したが、本当に女子高生がこんなこと言うだろうかと思ったけれど、アフレコしてみたら上白石さんなら言いそうだと安心した、と監督が語る通り、多少不自然でも配置する必要があった、物語上必要なセリフとして配置されています。
生まれ変わりには時間の概念がありません。そうしないと昔より生物の数が多い今や未来では、魂の数に整合性が取れないからです。同じ時代に自分と同じ魂を持った人間が複数存在している可能性もあるわけです。同じ魂を持ちつつ、別の人格である人間、すなわち運命の人です。出生時に失った自分の大半を埋めるのに一番しっくりくるのは自分と同じ魂です。でもそれは必須ではなく、別の魂で埋めてもいいわけです。だから、「秒速5センチメートル」のように運命の人が別の人と結ばれている結末もあり得ました。しかし今回は、巫女の半身である口噛み酒を地元の氏神であるムスビと魂を結ぶことで、タイムラグをもって未来の人間とむ結びつき、未来から現在に災害を知らせる警報システムとして、儀式の中に仕掛けられていました。糸守に危機を伝える試みは、一度は失敗しますが、巫女である三葉の半身としての口噛み酒の力を借りて、泣きの一回で本当の最後の入れ替わりを行うことで糸守の町民を救います。氏神であるムスビの神力で行うことができるのは、災害の情報を未来から今に伝えることだけで、災害自体をなくしてしまうことはできません。町民を避難誘導することはできますが、隕石はしっかりと落下し糸守町の大半は蒸発します。あくまで警報装置を設置したに過ぎないわけです。
その警報装置が設置されたのがおそらくは、前回の隕石落下の時です。前述のとおり、隕石の落下は今回で三回目です。初回には何の備えもなく、二回目からおそらく設置されていたと考えられます。瀧の前世が三葉、三葉の前世が、最初の巫女とタイムラグのある入れ替わりの人物、最初の巫女とタイムラグのある入れ替わりの人物の前世が最初の巫女です。これで、「前前前世から僕は君を探し始めたよ」となり、「君が全然全部なくなって散り散りになったってもう迷わないまた一から探し始めるさ」となるわけです。
というのが、この物語を楽しんだ私がさらにしゃぶりつくすために深読み、考察した結果です。あくまで、物語が楽しかったから深読み考察をしたわけで、深読み考察をしたから物語が楽しくなったのではありません。よって、この考察を伝えた結果、ご納得いただいたとしても、@MA3290さんがこの物語を楽しいと思える手助けにはならないということを付け加えさせていただきます。それ以前にこの考察が的外れで、納得がいかないという可能性も十分にあり得ます。初見で抱いた評価が、その人のその作品に対する評価なのだと思います。多くの人を楽しませるのが映画監督の手腕ですが、すべての人を楽しませられるわけではありません。今作は私を大いに楽しませて、@MA3290を楽しませることができなかった。それが全てなのではないでしょうか。
引き続き皆様も、考察に対するご意見ご質問どしどしお寄せいただけると嬉しいです。ではまた。
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かわたれ‐どき〔かはたれ‐〕【かわたれ時】 の意味
出典:デジタル大辞泉
《「彼 (か) は誰 (たれ) 時」の意。あれはだれだとはっきり見分けられない頃》はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。
かたわれどきは明け方、たそがれどきは夕方という使い分けがあったんですね。
なるほど。勉強になります。