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映画評
2013-04-21 4:52 by 仁伯爵

AURA ?魔竜院光牙最後の闘い?」は田中ロミオ著の同名ライトノベルをプロジェクト・ロミオの一環として劇場版アニメ化した作品である。田中ロミオといえば、最近では「人類は衰退しました」がTVシリーズとしてアニメ化されている。「人類は衰退しました」は衰退してしまった人類と、次世代人類である妖精さんによるほのぼのコメディー作品で、凝ったストーリー展開とシニカルな社会風刺で原作者のストーリーテラーぶりが堪能できる素晴らしい作品であった。「AURA ?魔竜院光牙最後の闘い?」については展開されているプロモーションを見る限り、少し低年齢層向けファンタジーの類かと思ったが、田中ロミオ作品ということで興味が少なからずあり、近くの劇場に監督が舞台挨拶に訪れると知ったので、これはと思い劇場に足を運ぶことにした。

しかし、この時点で私はすっかり嵌められていた。プロモーションによってすっかりミスリードされていたのだ。youtube等に上がっている予告編公式HPのプロモーション動画では鎧の男と黒衣の男が派手にバトルを繰り広げる。公式HPのキャラクター紹介ではしっかりとその男たちも紹介されており、他のキャラクターも、「貴族グループ」と「妄想戦士(ドリームソルジャー)」とに分類されている。ストーリー紹介でも「彼女は本物の魔女なのか?それともただのコスプレ少女なのか?」とある。これを見る限り、異世界からやってきた魔女を名乗る女の子と、普通の男子高校生が出会い、タダのコスプレ少女だと思ったらクライマックスで魔法を使って見せて大団円を迎えるというストーリーを誰もが思い浮かべるだろう。そこまで勘ぐらずとも、このプロモーションを真に受ければ、少なくとも魔法や異世界が出てくるファンタジー物だと思うに違いない。

しかしてその実態といえば、鎧の男と黒衣の男が登場するのは冒頭のパートのみであり、それは佐藤一郎が中二病を患っていた時分に思い描いていた妄想で実在しない。登場人物たちが所属する「貴族グループ」と「妄想戦士(ドリームソルジャー)」とは、高校のクラス内でのスクールカーストの分類だ。「彼女は本物の魔女なのか?それともただのコスプレ少女なのか?」という問いの答えは早々に明かされる。「ただのコスプレ少女」がその解だ。異世界も魔法も出てこない。それぞれの設定を抱えて妄想の世界に生きる「妄想戦士(ドリームソルジャー)」たちは突飛な言動と、中二病設定からくる眼帯をしていたり制服を着用しないなどの校則違反の風体を理由に「貴族グループ」に疎んじられ虐げられる。ついにはその矛先が主人公たちに向けられ、「貴族グループ」の一部による陰湿ないじめの標的となってしまう。校則を守れと言う「貴族グループの」の主張にも一理あり、「妄想戦士(ドリームソルジャー)」たちに全く非がないというわけではない。双方が正すべき問題を抱えている。脚本の熊谷純は「良子や一郎が一方的な被害者にならないように描き方は心掛けました。」(劇場版パンフレットより)と発言している。構成の上江洲誠によると「たとえ観客にストレスを与えることになっても、作品のテーマを浮き彫りにするために、徹底的にストレス過多なフィルムにするのだと腹をくくりました。」(劇場版パンフレットより)という。ファンタジー作品のようなプロモーションを行い、そのような作品のファンを集客した上で、この作品で描かれるのは、どうしようもなく痛々しい現実だ。大島たちの暴走を誘発したのは良子たちの非常識であり、良子を追い詰めたのは大島たちの狭量さであった。

最終的に、狭量なこの世界には価値がないと結論しこの世を去ろうとする良子を救うのは、かつて「妄想戦士(ドリームソルジャー)」だった自分をさらけ出し極限まで良子の側に歩み寄った一郎なのである。その行いは、大島による脅迫を無力化すると共に、事態を見守っていた人々の「妄想戦士(ドリームソルジャー)」たちに対する許容範囲をも広げた。クラスメイトは「妄想戦士(ドリームソルジャー)」を許容することで狭量さをほんの少し改めた。良子は、リサーチャーを自称することは止めないまでも、制服を着用し常識的にふるまう助力を一郎に求めることで非常識を改める。狭量と非常識を双方が改めることで希望を見出し物語は幕を閉じる。

「貴族グループ」のリーダーである高橋は、大島が行ういじめには加担していない。いじめの中心と「貴族グループ」の中心は必ずしも一致しない。高橋は物語の冒頭で一郎をショッピングに誘いさえする。その高橋が一目置く、OBの久米は龍端子の生みの親であり、「妄想戦士(ドリームソルジャー)」的な一面を持ち合わせている。一郎は「妄想戦士(ドリームソルジャー)」たちに崇拝されつつも、同一視されるのを拒み彼らを否定し続ける。いじめとの戦いの中心と「妄想戦士(ドリームソルジャー)」の中心にもずれがある。一郎は「妄想戦士(ドリームソルジャー)」 を否定しつつも、積極的に排除する行動はとらない。物語を良い方向に導いたのは、常識的にふるまいつつも常識外れを許容する人々なのだ。

ファンタジー作品のようなプロモーションを行い、そのような作品を好む客層にこの作品をぶつけたのは、かつて押井守が「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」で、庵野秀明が「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」でそれぞれ行ったように、アニメにはまり過ぎてしまった人々を現実に引き戻そうという意図もあったのではなかろうか。前にあげた2作品が高く評価される一方で否定的な意見が根強くあるように、この作品に不快感を示す層が少なからずいるであろうことが予想される。一部の廃人的にコアなファン層の拡大を恐れる問題意識が物語の制作側には脈々と受け継がれてるのだと感じた。そのような意味で、この作品は比較的低年齢層向けの作品ではあるが、行われている試みは大人が語るに十分値する作品であると感じた。子供の問題を理解する、または忘れないで保つというのは大人の大切な仕事の一つだからだ。

ただ、全体的に絵がチープであった。劇場公開作品であるにもかかわらず、アニメーション自体のクウォリティーはTVシリーズ作品とさほど変わりが無いレベルに見えた。原作者の
田中ロミオ も、AURAをアニメとしてみた感想を聞かれて、「動いているなと思いました。」(劇場版パンフレットより)とだけ答えている。褒めるところが見つからなかったのだろう。なぜこんなことになったのだろうか。製作費が安かったのだろうか。行われている試みはとても面白く、物語もとても魅力的であっただけに残念だ。この作品が、もっと気合いの入った圧倒的な作画と動画で展開されていたならば、私はもろ手を挙げて絶賛しただろう。その一点で悔いの残る作品である。

 上映後に行われた舞台挨拶には、私がチケットを購入した時点では、岸誠二監督と、良子役の声を当てた花澤香菜が登壇すると予定されていたが、予定が変わったらしく一郎役の島﨑信長岸誠二監督の代わりに登壇し、なぜか本編には登場しない声優の儀武ゆう子が司会を務めてトークが行われた。制作者の生の話が聞けると期待していのだが、少し肩透かしを食らってしまった気がした。しかしその分、声優のインタビューしか乗っていなかったヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qのパンフレットとは違い、AURA劇場版パンフレットにはちゃんと監督をはじめ、製作者のインタビューも収録されており興味深い話も乗っているのでお勧めである。

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