1期の続きとしての劇場版
先日、税金の支払いをしに銀行へ行くために街に出たついでに劇場版PSYCHO-PASSを見てきた。PSYCHO-PASSは、TVシリーズ1期と2期に続いて今回の劇場版が公開されている。劇場版の公開は1期の政策終了前に決まっており、1期と劇場版の間のつなぎとして2期が企画されたという経緯のようだ。そのためか、1期と劇場版のシリーズ構成と脚本は虚淵玄と深見誠、2期のみ冲方丁と熊谷純が担当している。監督の塩谷直義は全シリーズを一貫して担当しているが、シリーズ構成と脚本をはじめとするメインスタッフが1期と共通しているため、今回の劇場版は2期の続きというよりは、1期の続きのような印象を受けた。劇場版において2期から引き継がれる要素と言うのは2期から登場した人物がチョイ役で登場する程度で、2期を飛ばしたとしても問題無く話がつながる。いや、むしろ2期を飛ばしてみたほうが、狡噛と常守の関係や、シビュラシステムの本質などが解かりやすいかもしれない。2期でシビュラがさばくことができない悪者として登場する鹿矛囲は1期の悪役である槙島の免罪体質をなぞったものであった。これは攻殻機動隊の悪役である九世英雄や笑い男や傀儡回しが、超ウィザード級ハッカーとしての人形遣いの焼き直しにしかならないのとよく似ている。同じ舞台装置を使って突き詰めて話を作ると選択肢が限られてしまうのだろう。とはいうものの、2期はマルドゥックスクランブルの冲方丁がシリーズ構成と脚本に関わっており、シビュラの抱える問題を1期より深く掘り下げていて、単体として面白い作品である。しかし、シリーズとしての一貫性に欠けるという一点において、やはり劇場版は1期の続きとして見るのが解かりやすいのではないだろうか。
悪質だが必要なシステムと手段を持つ者の反抗
TVシリーズの1期と2期では、脳波を測定し人間の適性を分析、管理する厚生省のシビュラシステムに守られた100年後の日本の中で犯罪に対しては犯罪係数しか基準を持たないシビュラシステムでは裁けない免罪体質をもつ犯罪者と対峙し乗り越えることでシステムとしての矛盾に直面し、それを回避する策を講じることで必要悪としてのシビュラが進化するという結末であった。今回の劇場版では、世界の国々は全て内乱状態で社会が崩壊してしまっており、文化的な国家の体裁を保っているのはシビュラシステムに守られた日本だけであるという現状が描かれる。そんな状況の中、軍閥による内乱が続いていた東南アジア連合(SEAUn)へのシビュラシステム導入計画が進行している。
シビュラシステムの外側の世界がすべて崩壊してしまっているという状況は、今までぼんやりとしか言及されていなかった、シビュラシステムによって合理的に疑わしきを罰することによってしかテロやゲリラから社会を守ることができないと言う事実を直接的に描いている。それを鮮明にするかのように、映画の冒頭は「失われた時を求めて」から「人生は生きてる竹馬に乗っているようなもの。竹馬は教会の鐘楼よりも高く伸びやがて人が歩くには困難で危険となりついには落下する」という引用から始まる。社会を混乱から守れたのはシビュラシステムだけだ。ディストピアか、無法地帯しか存在しない絶望的な未来の姿である。シビュラシステムは悪質だが、それよりましなものが存在しておらず、シビュラシステムは矛盾に突き当たるたびに常守朱に促されて進化を続けている。シビュラシステムの恩恵を受けられるのは深く考えずに社会のなかで日常を送る人だけであり、知的で物事を深く考える知性を持つひとはシビュラに守られた社会では居場所を無くしてしまう。故にこの物語で暴力的な手段によってシビュラと対峙している人々は皆知的エリートだ。負けを覚悟に行う虐げられた弱者の反乱ではなく、能力と手段を持った人間によるシビュラへの反抗である。
無いものねだりの無限廻廊
1期ではシビュラによる徹底した規制のおかげで、公安が使用するドミネーターを除いてラストまで武器が登場しない。ドミネーターを使って犯罪係数を測定し、閾値を越えた犯罪者のみを倒した。犯罪係数が閾値を越えない槙島に対しては、シビュラシステムが自らの中に迎え入れることを模索するが、それを拒否し新たなテロをもくろむ槙島を狡噛がリボルバー式の火薬銃で撃ち殺す。槙島を最終的に裁いた火薬銃は征陸から受け取ったものだ。征陸はベテラン刑事でありトレンチコートを愛用するなどオールドスクールを示す記号をたくさん持ったキャラクターだった。今回の劇場版で、SEAUnからやってきたテロリストのテロを未然に防ぐことができたのは、常守朱が情報屋を使うという、「まるで昭和の刑事みたい」な手法によってであった。対してシビュラ導入過渡期でシビュラが導入されたシャンバラ地区の外側で銃火器を使った戦闘が日常的に発生しているSEAUnでは、ドミネーターは登場せず旧式の銃火器で戦闘が行われており最後の最後で公安刑事課のメンバーが日本から持ち込んだドミネーターを使ってシャンバラ地区内でシビュラシステムを不正使用していた憲兵隊を皆殺しにする。
シビュラシステムによる管理が成熟した社会における問題の解決は、旧式の火薬銃や昭和の刑事のような手法が有効であり、シビュラシステムがこれから導入されていく社会にあってはシビュラによる統制は治安維持に絶大な効果をもたらしている。シビュラが倫理的な問題やシステム的な隙間を抱えていて、その対処に旧社会の方法論が有効だとしてもシビュラシステムを倒してしまえば外の世界と同様の無法地帯が待っている。無法地帯に対処する方法としてシビュラの導入が有効だとしても、シビュラの行く先はディストピアである。シビュラを嫌悪し要求を突き付けながらシビュラの次にくる社会の在り方を模索しているのが主人公常守朱の立場だ。
狡噛と常守
今回の結末でも、SEAUnへのシビュラシステム拡大が領土拡大を狙っただけじゃないのかという常守の追及を、最大多数の最大幸福を目指しているだけだと民主主義の目的を掲げて自己弁護するシビュラに対して、ならば選挙という手続きを踏めと常守が要求しそれを通す。選挙もチュアン・ハンの影武者が当選見込であり、シビュラによる支配と言う結末は何も変わらないが、暗殺と陰謀によって成された治安維持であっても、民衆の支持が投票と言う手続きを踏んで示されるならばよしとする。狡噛が武力によって対抗し、独裁者であるチュアン・ハンがシビュラは最悪の官僚システムであると気づき自滅するのを狙ったのとは対照的だ。狡噛は終盤でもデスモンド・ルタガンダを追って行ってわざわざ倒す必要など無かった。ルタガンダは内戦が収束しつつある状況で今から新しい軍閥を旗揚げしようという野心を持っていた。戦国時代の終わりに戦国武将になることを夢見ているようなものだ。槙島の幻が言う通り、放っておけば自滅する。それでもそれを赦せずに命の危険を顧みずに倒しに行く。狡噛は行きずりの悪が見逃せないので戦っているだけ(パンフレットP017 虚淵、深見インタビューより)だ。常守は現状の改善を模索している。この対比は、1期で常守が槙島を殺さずに逮捕して法の裁きを受けさせようとしたのに対し、狡噛がリボルバーで撃ち殺してしまった時と同じだ。望む結末が違っても倒すべき相手、改善すべき対象の認識は一致しており結末に至るまでの道のりはともに歩くことができる。狡噛と遺跡のアジトで過ごす時と、宜野座と狡噛について話す時の常守は幼くかわいく描かれている。まるで親戚のお兄ちゃんにあこがれる少女のようだ。アジトの同じ部屋で一泊しながらも男女の関係になるそぶりすら見せないあたり、そのような表現がしっくりくるのではないかと思った。やはりPSYCHO-PASSはこの二人の物語なのだ。
袋小路と世界の終わり
シビュラシステムは問題を多く孕むシステムだ。しかしそれがこの世界に残された最後の希望となってしまっており、それ以上にいいものが見つかっていない。この状況は現実世界にも言えることだ。民主主義で優秀な政治家を選ぶことが不可能であることは疑いようもないし、資本主義は世界的な経済破綻と常に隣り合わせの状態となってしまっている。そもそも民主主義と資本主義は矛盾する概念だ。問題が完全に顕在化し不可避なものになる前に、次のステージへ進まなければならないが、民主主義や資本主義の次にくる概念が存在していない。テロとの戦いや犯罪防止の名目で今まで普通だったことがどんどん違法化されている昨今、物語の中では技術の進歩によりシビュラシステムが登場したが、SFのような進んだ技術が実現していない現実世界においては、シビュラシステムほどスマートに悪質な社会システムは到来せず、もっと直接的に醜悪で強権的な管理社会がすぐそこまで来ているのではないかという漠然とした不安がある。シビュラシステムの破たんは物語世界の滅亡を意味するが、常守朱がシビュラを導きながら現状を打開しようと努力した結果、いつかは生きている竹馬から落下してしまうのだろう。世界の終わりというのは案外そのようにじわじわとやってくるのかもしれない。この映画を見終わってそんなことを感じた。皆さまはどのようにご覧になっただろうか。