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映画評
2021-03-10 2:43 by 仁伯爵

この記事はシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇およびエヴァンゲリオンの物語全般において、重大なネタバレを含みます。シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇およびエヴァンゲリオンシリーズの物語をご鑑賞いただいた後にお読みになることを強く推奨いたします。

25年前の世界

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇を見てきた。本作が25年続いたエヴァンゲリオンシリーズの完結作品となる。25年前、TVシリーズの新世紀エヴァンゲリオンが放送されていたころ、インターネットは今ほど普及しておらず、学校のクラスでアニメを観るなどと公言することは学生生活を送るうえでリスクを伴う行為だった。首都圏のアニメオタクの間でエヴァンゲリオンが話題になっているなんてことはつゆ知らず、たまたまみた深夜の再放送で衝撃を受けた。最後の2話が全く理解できず、放送が最終回を迎えて終了したのに、私の中で物語が終了しなかったのだ。その当時は綾波レイより惣流・アスカ・ラングレーに心惹かれ、この物語に関する情報はないかと宮村優子のラジオ放送を聞いたりしてみたが、エヴァの物語に関する情報は得られず、聞こえる声はアスカではなくみやむーであった。そんな不完全燃焼な状態にありながら、誰にもその不思議な物語について話を聞いてもらうことができなかった。また誰かの見解を聞くこともできなかった。

そんな状態でどうしようもなく手がかりを失ったまま私の小さな容量の脳みそにおいて忘却の彼方に据え置かれたエヴァだったが、しばらくの時を経て旧劇場版で再会することになる。旧劇場版ではTV版の総集編と共に、最後の2話が完全に作り直されるとの触れ込みだった。相変わらず謎が多く少しでも理解しようと何度も見たが、それでも私の中のエヴァンゲリオンは完結しなかった。なるほどTV版の最後では人類補完計画が実行された後の精神世界をやっていて物理世界ではこんなことが起こっていたのかと、わかりやすくはなっていた。TV版の精神世界では人類補完計画が進み他人と自分の境界がなくなって一つの個になった人類にシンジが受け入れられ祝福されて終わった。旧劇場版ではその状態を拒否し、現実世界に戻って再び個に分かれたアスカとシンジが拒絶し合って終わる。何も問題が解決しなかった。その問題を解決する物語が、この続きがまだあるはずだ。そんな気持ちだけが残った。

旧劇場版の10年後、TVシリーズと旧劇場版を旧世紀版としたうえで、エヴァンゲリオンを最初からリメイクする新劇場版が4部作として制作された。今度こそ、エンターテイメント作品として、謎と問題の大半が解決される物語であることを期待した。事実、新劇場版の1作目の序と、2作目の破ではその通りTVシリーズのストーリーをなぞりつつ、新要素を加えてハイクオリティーなエンターテイメント作品として物語が進んだ。だが3作目のQで再び物語が突然難解になった。その様子は、「【映画評】ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを見てきた(ネタバレを含む)」で書いたとおりだ。本当に4作目で完結できるのか、我々はまた多くの謎を抱えたまま終わらないエヴァンゲリオンの呪いに縛られ続けることになるのではないか、そんな不安を抱えたまま前作Qから8年の月日を経て、covid-19の蔓延による公開延期の後、やっと2021年3月8日、シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇が公開されたのだ。なぜ我々オタクがエヴァンゲリオンの完結を謡ったこの作品を重く受け止めているのかお分かりいただけたと思う。

そして、この作品で見事にエヴァンゲリオンは完結した。この上ない完璧な終わりだったと言っていい。葛城大佐が「すべてのカオスにけりを付ける」と言った通り、すべてにけりがついた。旧世紀版にあった不完全燃焼感はもう無い。Qまでにばらまかれたフラストレーションは今作で見事に解消された。今までにないくらい丁寧にすべてが説明されている。分りやすかった。今までの難解なエヴァンゲリオンでありながら、今までならそこまで説明しなかっただろうというところまで踏み込んで説明がなされている。長かったエヴァの呪いが説かれた。すべてが終わった今、シン・エヴァを見た後だから分かるという事が山のようにある。本当の意味でエヴァンゲリオンは完結した。爽快感と切なさと寂しさが入り混じった感覚が一晩明けた今でも続いている。エヴァは終わったのだ。

物語の畳み方をめぐる戦い

25年前エヴァンゲリオンを作ったGINAXやその前身となる作品群は自分たちが置かれた状況を下敷きにして創作されているというと事が度々語られてきた。エヴァンゲリオンもGINAXやカラーが置かれた状況や庵野総監督の経験が反映された物語になっていると考えられる。

使徒の数が最初から決まっているのは、企画され制作される話数が決まっているからだ。1つのパイロットフィルムと1クール12話、計13話分のアニメ作成が、使徒との戦いだ。物語は第三使徒の襲来から始まる。第一使徒たる渚カヲルは企画を方々に説明するために作られるパイロットフィルムで、外部への説明の為に存在し、それとは別に本当に作りたい物語が監督側にあり、それも物語の前に存在する。企画が通って3つ目の制作として1話目の制作が始まる。そのころにはパイロットフィルムの作成からだいぶ時を経ている。よって15年ぶりに第三新東京市に現れた第三使徒となるのだ。

製作委員会が定めた計画通りに放送スケジュールに沿って1話ずつ締め切りが迫る。ギリギリの状態で何とか現場の踏ん張りに頼って使徒を殲滅するのは、完全パッケージの納品に相当する。そして、最終話に物語を終わらせるため、企画段階で示された当初のコンセプトに向き合う必要が出てくる。それが第一使徒であり第十三使徒である渚カヲルだ。そのため、庵野アニメ版のシンジは渚カヲルと仲が良く渚カヲルはどこまでもシンジを救おうとしているが、貞本義行版の漫画版では渚カヲルが空気を読まない嫌な奴として描かれ、シンジがそれを嫌っている。これは両者における当初案に対する印象と、現在のスタンスの違いであると思われた。アニメ制作の出資者たるゼーレは、出資に同意した時に説明されたコンセプト通りのものを作れとパイロットフィルムである渚カヲルを送り込んでくる。作品の象徴であったはずの最初の存在から第十三使徒に落とされるのだ。当初コンセプトは物語を創作する者自身が考えだした頭の中にある面白い理想的な何かが出発点だったはずだ。だからシンジは「カヲル君は父さんに似てる」と言う。渚カヲルは物語が結末を見失い、迷走を始める前の綺麗なゲンドウであると言えるからだ。だが企画を通すために企画書やパイロットフィルムが作成される段階においては、ステークホルダーを納得させるため、わかりやすい様にゆがめられている。序と破の路線のまま、わかりやすいエンターテインメント作品として終わらせる方向で、希望の槍カシウスでやり直そうとした渚カヲルは大長考の末に爆死した。序と破の方向性のまま突き進む道も十分にあり得たからこその大長考だったのだと思われる。しかし大昔に考え、出資者への説明用にわかりやすく抑制された結末など、今となっては作りたい物語ではなくなっている。序と破の方向性の明確な否定がQで行われていた戦いの内容であった。

ゼーレのシナリオは、作品が商業的に成功し経済的に利益を出せばよく、抽象的だ。どれだけ物語が進んで状況が変わっても「ここまではゼーレのシナリオ通り」と言えるのは、このままいくとまだ商業的に利益が出せる可能性があるという事に過ぎない。ゲンドウのネルフは、ゼーレのシナリオを実行するふりをして支援を引き出しつつ物語の結末を自分の作りたい内容に入れ替えて作品を完成させることだ。ヴィレの目的は、迷走した作品作りに巻き込まれ害を被る人たちがこれ以上でないよう、綾波の劣化コピーやエヴァっぽい何かの物語の作成を中止させることだ。

セカンドインパクト、ニアサードインパクト、サードインパクト、アナザーインパクト、フォースインパクト、アディショナルインパクトのそれぞれのインパクトは物語の完成を表す。葛城博士やシンジやゲンドウが行った各インパクトは、多くの人に迷惑をかけ、損害を与え、失望を買ったが多くの利益も生んだ。世界は惨憺たる有様になっているが、それぞれのインパクトを行わなければ世界は滅んでいた。作品を作ると激務に疲弊したメンバーや失望したファン、思ったほど儲からなかったステークホルダー等から厳しい非難の目が向けられるかもしれない。だが作品を作らなければ会社は倒産してしまう。

シンのヒロインを作り出す試み

先人が行った作品の完結(ファーストインパクト)を発見し、自分たちも作品を作った(セカンドインパクト)。それがきっかけでさらにエヴァを作り、サードインパクトで作品が完結するはずだった。すべての使途をエヴァで倒し、最後に槍でエヴァを貫くとインパクトが起こり物語が完結する。だがエヴァは完結させることができずニアサードインパクトに終わってしまった。そのため作品を完結させるべくサードインパクト、アナザーインパクト、フォースインパクト、アディショナルインパクトをゲンドウは立て続けに起こす。ロンギヌスの槍を使っても、カシウスの槍を使っても、物語が終わらない。ヒロイン候補だったアスカも使徒としてもう一話追加して完結させようとするがそれでも終わらない。ミサトさんが届けたガイウスの槍を使ってやっとシンジが物語を完結させた。

そこまでしてゲンドウは何がしたかったのか。理想のヒロインに会いたかったのだ。ヒロインをヒロインとして成立させることがこの物語の大きなファクターになっている。世界の在り方をめぐる戦いの物語であるにもかかわらず、宇多田ヒカルの作るメインテーマがことごとくラブソングであるのもそのためだろう。エンドロールの最後には、「Beautiful World(Da Capo Version)」で幕を閉じる。

王立宇宙軍オネアミスの翼で描かれたヒロイン、リイクニは宮崎アニメに登場するヒロインに対して、無償の愛を振りまくなんてそんなのやべぇ宗教女じゃないかというアンチテーゼとして設定されていた。その後、ふしぎの海のナディアでは褐色の肌の快活な跳ね返り娘をヒロインとして据えた結果、ナディアは当時それなりの人気を博した。だがそれらは完成された理想のヒロインとは言い難かった。

庵野総監督を投影したキャラクターである碇親子は、妻であり母である碇ユイに会いたがっていると思われていたが、実際には碇ユイを送りたかったんだという結末だった。碇ユイは理想のヒロインの象徴だった。理想のヒロインをモチーフに理想のヒロインの複製体を作って綾波レイとしてエヴァンゲリオンに乗せた。ナディアの方向性で過去の心惹かれた女性をモチーフに作られた惣流・アスカ・ラングレーもエヴァに乗せた。まだ優しく罪を背負う前の自分としてのシンジもエヴァに乗せた。年上ヒロインとしての葛城ミサトにそれらを統括させた。

これで、ゲンドウが碇ユイのもとへ到達するか、シンジがいずれかのヒロインと救い、救われる相補性のある関係へ到達できれば問題なくストーリーが完結したと思われる。綾波レイはメインヒロインのミスリードとして配置されていた。主人公に心惹かれるように設定されているが母親のクローンで、家族にはなれても恋人にはなれない。人間ですらなかったので家族であることも難しい。それが暴かれたうえで人類の他者と自己の境界が喪失するTVシリーズでは一応のハッピーエンドだったが、私も含めて放送当時それを理解できた者は皆無だったと思う。作り直された旧劇場版では、相変わらず綾波は化け物で、アスカは量産型のエヴァに食い物にされ、葛城ミサトは戦闘中命を落とす。個を取り戻したラストの浜辺ではシンジとアスカが拒絶し合って終わるのは前述の通りだ。そんな中、再度終わらせるために始まった新劇場版では、引き続き既存のヒロインたちは初めからメインヒロイン足り得なかった。アスカに至っては惣流から式波に名前が変更され仕切りなおさなければならなかった。本作ではアスカもレイと同じく式波シリーズの量産化ヒロインに成り下がっている。

イスカリオテのマリア

破からマリが追加されたのは必然だったと言える。初めから物語を終わらせるために追加されたキャラクターだった。とはいえ、本作を見終わるまで、マリは主人公たちのいざこざを一歩引いて俯瞰しつつ、自らは物語の核心に参加せずアスカをサポートする役割で配置されているのかと思っていた。そんなことは全然なかった。本作の冒頭で「どこにいても迎えに行くからね。わんこ君。」というセリフが、なぜアスカではなくシンジを迎えに行くと言っているのか理解できなかった。最後まで見た今ならわかる。彼女は傍観者としてではなく、バリバリのプレーヤーとして参加していたのだ。そのことが本作ではとても分かりやすく描かれている。

第三村の生活では、トウジと委員長が夫婦になって子供をもうけ、アスカは相田ケンスケをケンケンと呼び平気で裸体を晒して親密な関係であることが描かれた。ゴルゴダオブジェクトでのアナザーインパクトのシーンでも、アスカの精神の支えである指人形の中からケンスケがあらわれ、ケンスケがアスカの救いとなっている様子が描写された。トウジが「シンジも村になじんでくれたらええねんけどな」と言った時、ケンスケは厳しい表情を見せる。シンジがケンスケの家に長く住み着くことはできない。ちゃんと成長したかつての同級生たちの中、成長できなかったシンジには居場所がない。ちゃんと成長した面々から注がれる優しさがつらい。アスカも見た目こそ成長していないので村にはなじめていないが、中身は28歳の大人の女性となっており、ケンスケとの生活に居場所を見つけている。ケンスケは中学生の頃はエヴァパイロット志望でシンジをうらやむ立場だったのを少し引きずっている。「何でも屋にもできないことはある」と結界の外を指して言う。ケンスケにはできないが、シンジにならその気になればあれを何とかすることができるのだろうと、暗に戦線への復帰を促す。「ずっとここにいてもいいんだぞ」と言う別れ際の言葉も、本心と虚勢の半々なんだと思う。だから28歳にはなったが体が成長しておらず、相変わらず携帯ゲーム機であるワンダースワンをプレイしているきちんと成長できなかったアスカの支えとなることができた。アスカはケンスケの手前、シンジに優しくすることができない。シンジがアスカの怒こっている理由を自覚していることをアスカが確認し、お互いにかつて好きだったと伝えあった後も同様だ。最後に迎えに来たマリはアスカをケンスケのところに送り届けた。初期ロットの綾波は、村になじんでシンジの救いとなるが、人間ではないので調整なしでは長く生きられずあっけなく消えてしまう。初号機の中にいた綾波レイも、やはり母親の複製であり、「男ならシンジ、女ならレイと名付けよう」とゲンドウとユイが話し合っていた通り、レイは恋人と言うよりは家族だ。最後の駅のシーンでは渚カヲルと親密な様子が描かれていた。すごくしっくりきた。ミサトさんに加地さんとの間の子供がいて、シンジと自分の息子が写った写真を大切に飾っている。こちらもヒロインと言うより母親になってしまった。

かつてのヒロインが最早ヒロインでないことが明確に示された後、満を持してマリがメインヒロインとして前面に出る。ゴルゴダオブジェクトでの最後のインパクトの最中、ゲンドウがどこを探しても理想のヒロインたるユイは見つけられなかった。それどころか探そうとすると白黒のラフ絵になってしまう。そして、「最初からそこにいたのか」とシンジの中にユイがいるのを見つける。これまではゲンドウとシンジの両者が総監督である庵野監督がつよく投影されたキャラクターであった。Qから8年が過ぎた本作では、よりゲンドウの方に強く投影されているようにシフトしたのだと考えられる。TV版の人類補完計画中の電車のシーンでは主にシンジと周りのキャラが独白していた。今回は今までなかったゲンドウの独白がある。そしてシンジの独白はない。今回のシンジは庵野監督が下の世代を投影しているように見えた。ゲンドウの中にシンのヒロインは無く、シンジの中にあった。マリに関する作り込みは、庵野総監督ではなく鶴巻監督へ役割が振られていたという。最後のエヴァンゲリオンに引導を渡すのも彼女だ。

かつてのヒロインたちと明確に決別し、今までのエヴァの中で一番視聴者の心に深入りしていないマリが現実世界へエヴァの呪いがかかった視聴者を解放した。神格化されてしまった理想の清廉潔白なヒロインではなく、裏切りの名前と聖母の名前を併せ持つ彼女が物語を完結へと導いた。

毒と浄化

25年前には全く分からなかったが、TV版のあの結末は、ハッピーエンドだったのだ。その表題の通り、福音を与え祝福し新しい世紀を目指す物語だったのだと今にして思う。自己肯定感が低く葛藤を抱える主人公が受け入れられ、全面的に肯定され解放される物語だったはずだ。人の精神の闇を掘り下げ癒しを目指していたという意図があったのではないか。だができたものを見た時に視聴者である我々はそれを受け取ることができなかった。延々と暗い闇を突き付けられた後に唐突に青空が映し出されて「おめでとう」と言われて困惑してしまった。一番大事な結論を受け取らず、序盤と中盤の盛り上がりと終盤の毒の部分だけ受け取ってしまった。最後の一番大事な部分を受け取れなかったにもかかわらず、それまでの物語があまりにも魅力的で、面白く映像もカッコよかったために意味の解らなさに失望もしなかった。それどころか続きを要求してしまった。自分が理解できていないだけで何か壮大な仕掛けがあるはずだと、考察を重ねればそれにたどり着けるはずだと考えてしまったのである。

その後に作られた旧劇場版では、ハッピーエンドが駄目ならバッドエンドではどうかとばかりに突き放すことでTV版で心をつかまれたまま解放されなかった視聴者を開放しようと考えられたのだと思う。TV版の結論を否定したうえで、メインヒロインであるアスカからも拒絶された。それもやはり訳が分からなかったために、突き放されても解放されることなく、毒をエンターテインメントとして受け取ってしまい、更に続きを要求してしまった。

そうしてエヴァの毒にやられたままの人を開放すべく新劇場版が作られた。劇場版も商業的に成り立つほどにエヴァの呪いにつかまったままのファンの数があまりに多かったのだ。そうしてやり直された新劇場版がQでさらにやり直され、シン・エヴァでさらにやり直された。その姿は終盤にインパクトを連発するゲンドウそのものだ。

Qのままだったらさらに毒にやられたままもっと続きをと要求し続けてしまっただろう。その流れをシン・エヴァは綺麗に断ち切った。見事に終わった。確実に解放された。この結末に満足した。

ミサトさんがなぜあそこまでシンジに冷たく当たったのか。そうしなければニアサードインパクトで大切な人を失っているクルーをまとめることができなかったからだ。つらい経験をしながらシンジが艦に戻ってきたことを喜んでさえいた。シンジがエヴァに乗らなくていいようしたいという、綾波と同じ真心を持っていた。なぜアスカがあそこまで怒っていたのか。3号機に乗っていた時にシンジが何も決断してくれなかったからだった。必要以上に態度がきつかったのもケンスケに操を立てていたからだった。あれだけ強大に見えた父親もただの人だった。

第三村で周りの人間の優しさに支えられてシンジが立ち直ることができた。ミサトさんを嫌いにならずに済んだ。アスカにちゃんと失恋することができた。父親に引導を渡すことができた。すべてすっきりした。自分の中でちゃんと最後のインパクトが起きた。切なく心にぽっかり穴が開いたが、爽快で満足感がある。

今では、シンジに第三村でおせっかいを焼いてくれた綾波がいたこと、見守っていてくれたアスカがいたこと、戻ってくる場所を提供してくれたトウジや復帰を促してくれたケンスケがいたこと、気にかけていてくれて最後には信頼してエヴァに再び乗せてくれたミサトさんがいたことを心底うらやましく思う。惜しむらくは、この物語が予定通り2007年付近に公開されていたら、私はまだ東京でまっとうに会社員生活を継続していたかもしれない。今となっては戻る場所も担えそうな役割ももうすでにないが、せめて10年前にこの物語が公開されていたら、私の人生は変わっていたかもしれない。それでも、今この物語がこの上なく完璧な形で完結したことをうれしく思う。

ちゃんと終わらせてくれてありがとうございました。

追記1: 面白かったシン・エヴァンゲリオンの記事たちメモ。

追記2:

シンエヴァンゲリオンを観てから1週間以上が経過し、多くの感想記事がネット上に上がり、それらを巡回するにつけやっとエヴァロスとも呼べる余韻がやっと引いてきた今感じていることも備忘録として追記しておきたい。

エヴァの最後を飾ること作品で物語が綺麗に終わったことを寿ぐ人々と、わかりやすく綺麗に終わったことに不満を持つ人々に分かれている。これに関して、どちらかに与してどちらかを批判する気持ちになれない。双方の気持ちが理解できる。シン・エヴァンゲリオンを以ってエヴァは完結した。だがそれは、他者によってもたらされた終わりだった。この作品が庵野総監督の私小説のようなものになっているのは、「本当にオリジナルなのは自分の人生だけで後は模倣の寄せ集めだ」という信念からだと思う。だからこの作品の端々にはリスペクトを込めたオマージュが沢山ある。自己の人生にSFや特撮の文脈で装飾を施したしたのがこの物語だった。いくら自己で完結させようとしても、終わってない自分の人生を物語の上で終わらせることができなかった。そのため、他者によって物語が完結した。自己の中にある希望のモチベーションであるカシウスの槍でも、絶望のモチベーションであるロンギヌスの槍でも、物語は終わらなかった。そこで他者によってつくらせたキャラクターであるマリと、ヴンダーで作った未知の槍であるガイウスの槍で終わるという結末だった。

他者ではなく総監督自身がどう終わらせるのかを見届けたかったのだという気持ちもよくわかる。終わらせることを優先し過ぎて終わらせ方が半ば強引だという指摘もわかる。マリの存在とシンの物語の進み方が異質過ぎるのは意図的にそうされているのだと考えられる。意味もなく3.0+1.0という表記にはしないだろう。しかし他者によって終わらせるという決断が総監督の終わらせ方だったという結論以外に今は結論を持ちえない。物語を作ることは罪を伴う。自分で自分の罪を許すのは人生において難しく重要な事だ。だが対外的に表明すると自己正当化や自己弁護ととらえられかねず物語としての説得力は薄れる。他者の介在は半ば必然である。シン・ゴジラでも、シン・エヴァンゲリオンでもSINがつく。次のウルトラマンにもシンがついている。総監督がどう終わらせるかを求めるならば、エヴァの終わりではなく庵野秀明の終わりを見届けるほかないのではないか。私は庵野秀明の終わりではなくエヴァンゲリオンの終わりを求め、今作でそれは為された。庵野秀明によるエヴァンゲリオンは他者により完結し、終了したのだ。昔の友人からの「私たち結婚しました」のはがきが「お前も早く結婚しろ」というメッセージではないのと同様に、エヴァも「現実に帰れ」というメッセージではなくただ単に「私は現実に帰りました」というハガキが届いたにすぎない。

次のエヴァンゲリオンがあるとすれば、他の監督によってつくられるだろう。富野由悠季によらないガンダムがガンダムの後に続いたように、庵野秀明によらないエヴァンゲリオンへの道は開かれたように思う。きっと25年前のTVシリーズなど知らない世代には、庵野秀明によらないエヴァンゲリオンはすんなり受け入れられると思う。25年前のTVシリーズから追っかけいている我々はそれを邪魔するべきではないのではないか。むしろ面白がって見せるべきだ。どんな傑作にも、どんな駄作にも面白がり方は存在する。次の作品をどう料理しどう楽しむか、それが問題だ。楽しむことができなければ白旗をあげるしかない。映画は娯楽なのだから。

追記3:惣流をあきらめない

13号機でのインパクト阻止のために使徒化するアスカを止めに来たアスカを、式波は式波シリーズのオリジナルと呼んだ。このシーンを見て、やはりオリジナルは式波なのかと思った。しかし、綾波シリーズのオリジナルが碇ユイであることを考えると、式波シリーズのオリジナルが式波でないといけないという事はない。あれは惣流だったのではないか。もしくは、惣流キョウコ・ツェッペリンだった可能性はないか。そもそも、我々が式波だと思っていたQからのアスカは式波を名乗る惣流なのではないか。そうでなければ、惣流とオーバーラッピングした式波なのではないか。いろいろな可能性が頭の中を巡り巡る。

TVシリーズのヒロインである惣流・アスカ・ラングレーは、精神不安定になった母が娘である自分を認識できなくなって人形をアスカとして可愛がり、果ては母がアスカと思い込んでいる人形と共に心中している現場をアスカが目撃するというPTSDを抱えていた。新劇場版のアスカは式波シリーズとして作られているため式波にはそもそも母親が存在しておらず、惣流が抱えていたPTSDを抱えてはいない。アディショナルインパクトでの独白では母の自決ではなく、両親に抱えられるシンジをうらやんで親がいないことがコンプレックスとして描かれていた。そのため破までの式波は惣流とくらべ精神的に安定しており、加地さんに依存してもいなかった。それが、3号機での件でシンジに助けてもらえず死にかけるというPTSDを抱えて不安定となり、それを支えたのがケンスケであったのだろうと考えられる。TV版の時のように廃人とならず、感情を怒りとして発露させることができているのもケンスケのおかげだろう。

ケンスケと式波の関係は、恋人と言うよりは惣流と加地さんの関係に似ている。恋愛というよりは精神の安定のための依存だ。恋愛関係へ発展させるタイミングを逸したまま時だけが流れてなあなあの関係になっているように見えた。14年間肉体的に成長しない式波と、通常の成長と老化をするケンスケの間で通常の関係を構築するのは困難であったのではないか。精神安定のよりどころとしているパペットの中から現れるケンスケは恋人と言うにはあまりにコミカルである。道化のようにすら見える。綾波と同様に式波もシンジに好意を持つように設計されていると考えられる。その感情を本物としてよいのかどうかという葛藤が彼女の中にもあり、それが解消されるのはエヴァのない世界が実現された物語のエンディングの後だ。エヴァのない世界ですべてのアスカが統合され、体も成長しシンジに好意を持たなければならないという縛りがなくなったアスカならケンスケと関係を発展させることができるだろうが、それは物語の結末の後の出来事となる。

マリがいつシンジに心惹かれるようになったのかという議論があるが、そもそもマリはあまりシンジに恋愛感情を抱いていないように見える。マリはシンジを評して「都合のいいヤツ」と言ったり、「せめて姫を救え」とアスカへのフォローを促したり、チルドレンの世話を焼くお姉さんポジションで一歩引いた立場にいた。最後の駅でもアプローチしているわけではなく、迎えに来たついでにシンジをただからかっているだけだ。マリはシンジに好意を持つように設計されていない唯一のヒロインとして存在している。むしろシンジの方がマリに惹かれている。アスカとケンケンの関係発展が物語のエンディングの後になるのと同様に、シンジがマリを口説き落とせるかどうかも、物語のエンディングの後の話になるのだろう。シンジがマリに振られ、アスカがケンスケを振ったなら、まだアスカにもチャンスがあると固く信じるものである。

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