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映画評
2013-07-23 22:12 by 仁伯爵

 先週末の参院選の投票に出かけるついでに、ちょっと足を延ばして宮崎駿監督最新作の「風立ちぬ」を見てきた。宮崎作品と言えば、不思議な乗り物や、魔法の力、失われた超古代技術などが出てくるファンタジー作品が主である。しかし、今回の「風立ちぬ」は、堀越二郎と言う実在の人物を主人公にして、史実を織り交ぜた完全なフィクションという形をとった作品となっている。パンフレットに収録された宮崎駿監督の企画書によると、第一次世界大戦、関東大震災、世界恐慌、第二次世界大戦へという時代を舞台に、飛行機の設計者堀越二郎と文学者堀辰雄をごちゃ混ぜにした人物を主人公据えて、狂気をはらんだ夢を追う代償に打ちひしがれても尚、傑出した独創性と才能を持った人間の姿を描いているのだという。故に、パンフレットにある年表のとおり、劇中の出来事と史実は必ずしも整合性を取っているわけではないし、実際の堀越二郎はおそらく関東大震災に遭遇していないだろう。ヒロインとして登場する菜穂子は、堀辰雄小説「菜穂子」の主人公から名前をとり、堀辰雄の妻、矢野綾子をモチーフに描かれる架空の人物である。劇中で堀越夫妻は子を生さないが、現実ではご子息がご存命である。試写会でこの作品を鑑賞し大変喜んでいたそうだ。話題となっている庵野秀明氏による主人公の声は、最初こそ下手くそでびっくりしたが、物語が進むにつれさほど気にはならなかった。途中で「風」という詩を朗読するシーンがあり、それは効くに堪えない酷さだったが、それ以外については、ああいうしゃべり方をする人は現実世界にもいるだろう。

 宮崎駿監督は、戦闘機好き達がゼロ戦の開発者として好き勝手に語る堀越二郎像を何か違うと感じており、実際はどうだったのかという推測を立てるにあたり堀辰雄のキャラクターと混ぜるという手法をつかって、実際はこうだったんだろうという青年技師二郎を作り上げている。ではそれはどんな人物かと言うと、「狂燥、熱狂、極度の集中、自由への執着、個人主義、過度の自尊心、現実主義と理想主義の沸騰物、が、しかし極めて冷静で明晰さを併せ持つ人物。」「平然と世渡りをしつつ、美しい飛行機を作りたいという野心をかくしている」(パンフレット宮崎駿監督による企画書より)となる。つまり、頭のねじが数本飛んでしまっているが、高い社会性を保持し続けている人物と言うことになるだろう。震災時に助けたお絹と菜穂子から同時に一目ぼれされてしまうし、軽井沢の別荘ではドイツ人スパイのおじさんと菜穂子の父ともども少々の会話をしただけで好青年だと言われ、三菱内燃機の上司をして特別高等警察に追われている中、役に立つうちは全力で守ると言わしめる。出会う人すべてから信頼を得る事の出来る、尋常ならざるコミュニケーション能力だ。

 その一方で、劇中の二郎は一貫して「美しい物」にしか興味が無い。幼少の夢の中に出てくる鳥のようなフォルムの飛行機も、幼い二郎が精いっぱい思い描く美しさを備えた機体である。助走もなくいきなりふわっと離陸するのはあの頃の二郎にはまだ想像に細かなディテールを加えるほどの知識が無いからであろう。二郎の夢はあくまでも魔法の世界ではなく二郎の頭の中だからだ。そんな夢の飛行機も兵器を乗せた黒い飛行物体に撃墜されて目を覚ます。幼いながらに戦争に突き進む世界の不安を感じ取っており、ハッピーエンドにならない物語の結末を暗示させる。

 二郎は鯖の骨のカーブの美しさに感心し、ドイツでユンカース社の飛行機を綺麗だと言い、ドイツのホテルにあるジェラルミンでできた蒸気暖房をみて美しいと感想を述べる。それに対して、同僚の本庄は、日本は10年遅れてるから魚ではなく肉を食えと言い、ユンカース社の飛行機は良くできていると褒め、ドイツのホテルでは、20年後れを取った日本がどうやったら列強に追いつけるかという焦燥感にかられ考えをノートにまとめている。二人は「良い飛行機を作る」という目的を共有しながら、「良い飛行機」の意味を共有できていない。カプローニおじさんと狂気を共有できるのは本庄ではなくやはり二郎なのだ。

 美しいものに興味をひかれる一方で、美しくない妹、加代は終始冷遇される。幼少の頃には勉強を優先する二郎に遊ぶ約束を反故にされ、東京の下宿を訪ねた時も、名古屋の居候先の黒川邸を訪れたときも、二郎には「加代が来るのをすっかり忘れてた」と言われ迎えに来てもらえない。それどころか、妹が遠くから訪ねてきて遅くまで帰りを待っていたにもかかわらず、あいさつもそこそこに疲れたから休むと言って二郎は奥に引っ込んでしまう。妹を可愛く思い、夢を後押しするために父親を説得するくらいの優しさは持ちあわせているが、積極的な興味は存在しない。

 美しい薄幸のヒロイン菜穂子は、すでに完成された美しさとして二郎に愛されるが、これから完成する「美しい飛行機」の魅力には勝てない。二郎の優先順位は常に菜穂子よりも飛行機のほうが上だ。それどころか、菜穂子は美しさを損なえば二郎が自分から興味を失ってしまうため、病床にあっても頬紅を差さねばならぬなど、涙ぐましい努力をする。最後には、美しくいられる限界を悟り富士の療養所へ去っていく。そのような菜穂子の心情を尽く加代が理解してしまい、「兄様は菜穂子さんが部屋で頬紅を差しているのを知っているのですか」と兄に迫り、山へ去って行った菜穂子の意を汲み「兄様に美しい姿を見せたかったのね」と代弁する。

 「美しい飛行機」を作るという夢にとりつかれ最愛の者さえ愛しきれない二郎は明らかに常軌を逸している。宮崎監督の言う通り、「夢は狂気をはらむ」のである。重病の妻を抱えて仕事に没頭する二郎に葛藤が無いのは狂っているからだ。しかし、夢の中でカプローニおじさんが、「まだ風は吹いているか?」と問い、「はい」と二郎が答える問答に誰しもが思い当るところがあるのではないだろうか。「風が吹いている」とは自分にとってどうしてもやりたい事の方向性がしっかりと認識できている時の、あのざわざわした感覚のことだ。二郎が計算を重ねて図面を引き、勉強会を開いてアイデアを皆で共有する。そこで交わされる技術的な話は、他のどんなものを差し置いても聞きたくなるほど面白い。そうやって失敗が許されない状況で試作機を何度も空中分解させつつも、少しずつ美しい飛行機に近づいていく様子をみて高揚感を感じないわけには行かないだろう。鈍重なアヒルの子と言われた七試艦上戦闘機が、スマートなカモメのような九試単座戦闘機へとつながっていく様はとても生き生きと魅力的に描かれ、今すぐにでも何かを作りたい、そんな気持ちにさせられた。カプローニおじさんは、風が吹いているならば、「生きねばならない」、と断言する。極論すれば、風が吹いていないなら生きてても死んでても、どっちでもいいのだ。彼は、正しいことを言って二郎を導いているのではない。カプローニおじさんの、カッと見開かれた目の描かれ方は、狂気の目そのものである。さっきまで自分も乗っていた、自分の作った戦闘機を見送って、「あの半分も帰ってこないだろう」と言い、軍からの注文で作った馬鹿でかい爆撃機を指して、「こんなものは戦争では使いものにならない」と切り捨て、「しかし、戦争はじきに終わる。終わったらあれを作る。」と夢の旅客機を指して見せる。そこに善悪の判断はない。作りたい飛行機があるだけだ。すべてはそこへ至る過程に過ぎない。「近眼でも飛行機は作れますか?」という二郎少年に「自分も飛行機の操縦はできないから心配ない」と言い、「風が吹いているなら生きろ」と言う。終始彼は、二郎に対してGOサインを出し続けるのだ。彼もまた飛行機にとり憑かれており、そのうえで狂気の道へと二郎をそそのかしている。カプローニおじさんは二郎の代弁者であり、啓示を与えているわけではない。夢はあくまでも二郎の夢であり、それ以上でも以下でもない。

 ゼロ戦の開発者として有名な堀越二郎の物語なのに、九試単座戦闘機の成功で幕を閉じるのは、堀越二郎本人がゼロ戦よりも九試単座戦闘機の方に心奪われたままだったからだろう。逆ガル翼を採用していたのは九六式艦上戦闘機の試作一号機のみであり、その後の試作機、および後継機はゼロ戦を含め、逆ガル翼ではない。ゼロ戦よりも九試単座戦闘機の試作一号機のほうが美しいのである。

 終盤、二郎はついに菜穂子の犠牲の上に逆ガル翼を採用したスマートで美しい飛行機、九試単座戦闘機の試験飛行を成功に導く。劇中で唯一空中分解しない試験飛行だ。夢を達成した一瞬だけ狂気から解放され、我に返った二郎が自分の飛行機ではなく菜穂子が去って行った山を見る。そこで二郎の胸に去来する感情は、菜穂子をないがしろにしてしまったことに対する後悔ではないだろうか。これで本当に良かったのかと言う疑念。そこで現実世界のシーンは最後となる。ラストシーンは夢の中でゼロ戦の残骸が散らばる上に広がる草原にてカプローニおじさんが、力は尽くしたが散々な結果に終わったさみしげな二郎をワインへ誘う。その前に菜穂子との再会があるが、お礼を言うと菜穂子は消えてしまう。そんなさんざんな目にあいながらも、カプローニおじさんのワインに興味も示さず、草原の美しさにまた目を奪われてきょろきょろしながら草原を歩き終劇となる。懲りていないのだ。九試単座戦闘機の試験飛行が成功したところで現実世界が終わっているので、成功してめでたしめでたしという見方もできるが、草原のシーンが物語るのは、愛する人さえも犠牲にし、狂ったように美しい飛行機を追い求めた結果、大日本帝国という国が亡ぶのに一役買ってしまい、その後の飛行機開発もGHQにより禁止されて、「美しい飛行機を作る」という夢が完全に打ち砕かれてしまった男の顛末を描いた物語である。

 世間では賛否両論だが、私はこの作品は間違いなく名作であると断言できる。宮崎駿は、初めからこのような作品を作るべき人だったのだ。もっとも、最初からこのような作品を作っていたなら今の名声はなかったであろうことは想像に難くない。しかし、洋邦、実写、アニメと問わず近年これほどまでに切ない物語を描けたものがあっただろうか。子供向け作品ではないのに子供向け作品であるかのようなプロモーションを行っていると批判する向きもあるようだが、これは、ぜひとも子供に見てほしい作品だ。劇中でカプローニおじさんが、「力を尽くして生きろ、技術者の持ち時間は10年だ」と言う。自分の10年を迎える前に是非子供に見てほしい。きっと理解できないだろうが今はそれで良い。自分の10年が終わった後でもう一度見直して涙するがいい。そういう作品であると私は思う。皆さんはどのようにご覧になっただろか。

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