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映画評
2012-11-19 16:12 by 仁伯爵

この日曜日に、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを見てきた。Webから最寄りの映画館の空席状況を確認したところ、公開初日の11/17土曜はほとんど席が埋まってしまっていて、ろくな席が空いていなかった。しばらくして隙きだしてからゆったり見に行こうと思ったが、公開初日からWeb上には早々にネタバレ情報が氾濫し始め、それを回避し続けることは非常に困難なことに思えたので、公開二日目の日曜日にWeb予約で席を抑え見に行くことにした次第だ。それでも前から4列目という極めてスクリーンに近い席しか確保できなかった。画面の端が第一視野を飛び出て第二視野に入ってしまうので、左右上下の偏った位置に文字が来ると視線をずらさなければ読めなかったりした。
だがその分、視界のほとんどがスクリーンだったので映画の世界にどっぷりとはまることができた。

率直な感想をまず述べると、エヴァンゲリオンらしくなってしまった、と思った。新劇場版は、序、破、Q、:|┃(楽譜記号の反復記号なのか、コロンを除いた終端記号なのか不明)の四部作の作品だが、序はハッピーエンドで破につながり、破は大迫力の戦闘シーンから、日常パートまで盛りだくさんで最後も衝撃的ではあるものの、使徒に取り込まれた綾波レイを救い出して終わるという、エンターテイメント作品としてエヴァンゲリオンの予備知識のない人でも楽しめる作品だった。しかし、今回の新劇場版:Qは、ヱヴァンゲリヲンや、庵野監督に対する予備知識がなければ振り落とされてしまうであろう。長年ヱヴァンゲリヲンファンをやっている人たちの中にも、落胆の色を隠しきれない人と、ヱヴァが戻ってきたと感じる人の賛否両論が渦巻く作品となっている。

前作の破に付いていた予告編のシーンは一切なく、14年間に起こった出来事として軽く流され説明すらされない。そして物語は破の14年後から始まる。TVで先行放送された宇宙での初号機奪取作戦と、空中戦艦WUNDERが行う艦隊戦は、絶対的劣勢を無茶な作戦でひっくり返すという今までの使徒殲滅戦にも重なる爽快感と迫力がある。相変わらず自信満々のアスカと飄々としたマリのコンビが、見ていてとても気持ちがいい。作戦行動中に懐メロを口ずさんだりと終始マイペースなマリの姿が、ピリピリとしたWUNDER内に潤いを与える。メカニックもアクションもすべて申し分なく楽しめた。そこで14年間の眠りから覚めて状況が把握できなくて戸惑うシンジと、見ている視聴者の視点がシンクロするのだが、彼は終始全クルーから軽蔑と侮蔑のまなざしを受け冷遇される。見ていてとてもつらかった。破のラストで今までの碇シンジ像から少し成長し自信ある姿を見せていたところからの落差が激しい。ここからは終始、主人公の心は折れ続ける。物語の最後では、アスカに支えてもらわなければ立てないほどに打ちひしがれてしまう。このどうしようもない暗さと説明されず事態を把握できないまま物語が進む不安感がヱヴァンゲリオヲンの真骨頂であり、この毒にやられたからこそ我々はこの作品にどうしようもなく惹かれ、無駄な考察を重ねてしまうのだと思う。とても懐かしい感覚である。これを求めて十何年もこの作品に関心を寄せ続けてきたのかもしれない。しかし、それと同時に、序や破で見たあの完成されたエンターテイメントのまま完結するエヴァも見てみたかったと思ってしまう自分が同時に存在する。お前は一体どっちが見たいんだと問われれば、どちらも見たいのである。見逃したくはないのだ。

ただ、Qの作画に関しては、序、破の足元にも及ばないと正直思った。人類のほとんどが滅亡した世界なのでわざと崩した作画にしているのかもしれないが、シンジとカヲルがNERV本部で会話してるシーンでしばらく手のアップになるシーンがあるが、手の作画がひどい。WILLEがかかわらないところの作画は残念なシーンが多く、予算がなくなってしまったのかと本気で心配てしまった。
これは邪推だが、おそらくは途中まで予告編通りの作品が進行し、途中で大幅な路線変更をしたのではないだろうか。そんな邪推をしてしまうほど絵としてのスカスカ感が印象に残る。パンフレットにも、声優陣のインタビューばっかりで監督やスタッフのインタビューが一つもない。林原めぐみさんのインタビューの内容から察するに、スタッフ間で設定等に関し意思統一ができていないから、載せられないのではないか、などといらぬ心配をしてしまう。

劇中に於いて状況を把握しうるに足る情報が与えられない事から、この作品は見た人間の考察を抜きには成立しない。序や破で、月に血の跡が残っていたり、海の色が最初から赤かったり、人類補完計画の報告書の数字が進んでいたりと、旧劇場版で起こった出来事がそのまま引き継がれているような要素が配置されたまま、物語は最初から巻き戻されて少しづつ旧作とは違うストーリーを進んできた。Qでは旧作品から大きく外れ全くの新作といっていいほどストーリーが分岐しているが、旧作で起こった出来事は忠実に繰り返されている。

新劇場版では、旧シリーズの出来事を繰り返して、いくら変えても結局は同じ結果を招いてしまうが、それでも旧シリーズのより事態は好転しているんだぜ、という構造になっていると思う。エヴァ3号機の起動実験で使徒に浸食されてしまうのが、旧シリーズのトウジからアスカに変わったが、結局シンジはエヴァを私的占有してネルフ本部に立てこもるという同じ結果になってしまう。
拒絶型の使徒との戦いでも、旧シリーズには登場しないマリが助けに入るが、結局は綾波は自爆してしまう。それでも、使徒に取り込まれた綾波を救い出すことには成功するという進展を見せる。

智慧の実と、生命の実を手に入れ、サードインパクトを旧シリーズと同様におこしそうになった所を月から渚カヲルがやってきてそれを阻止し、ニア・サードインパクトにとどめてくれる。しかし、意識のなかった14年の間にサードインパクトは起こってしまっており、アスカは旧劇場版で負った傷と同じ個所に負傷している。それでも、旧劇場版と違い、シンジとアスカだけでなく、WILLEの人たちが生き残っている。
セントラルドグマに降りる時も、前作のようにカヲルを殺すためではなく、ロンギヌスの槍とカシウスの槍を抜くことで、世界をやり直す為という変化があるが、結局は旧シリーズと同じところで渚カヲルは騙されて死んでしまう。それでも、アスカとマリが結果的に助けに入ってくれるという進展がある。
同じ物語をやり直して少しずつ違う行動をとっても結局は同じ轍を踏んでしまい、旧シリーズと似たような結果になるのだが、それでも少しずつ事態は改善してるのだ。おそらくそれを物語の中で実感していると明確にわかるのは渚カヲルとゼーレの老人たちだけだ。たとえ本人たちに知覚する術がなくても、事態は好転しているんだという希望がそこにはある。どうしようもなく絶望的なこの物語の中にも希望が感じられるのはそのためだろう。

ラストシーンで、先ほどまで敵として戦っていたにもかかわらず、打ちひしがれて立つこともままならないシンジと、感情を取り戻しつつあるアヤナミレイを引き連れて歩くシーンのアスカの頼もしさは、庵野監督は「アスカはプロの傭兵」として描いているからだという解釈もできるが、14年間待ち続けて培った彼女の強さが現れているのではないかと感じた。TVシリーズの最初の3人が、人の歩くことにできない砂漠を歩くうちに少しでも序や破の前半にあったような明るさを取り戻す方向に進んでくれることを願ってやまない。

それと同時に私がこの新劇場版から受け取ってしまうのは、「お前ら何やってんだ、アニメばっかり見てないで、しっかりしやがれ!」という監督からのシニカルなメッセージである。劇中では、WILLEには処々の事情から民間人が参加しており、その中にはゆとり世代の特徴をもろに現したキャラクターが複数居て、新入社員を受け入れた企業の現場を彷彿とさせる。組織内では、女性が主に活躍しており、男性陣は終始押され気味に描かれる。整備長に出世した矢吹マヤはとてつもなく顔をゆがめて「これだから若い男は!」と愚痴をこぼす。碇ゲンドウ、冬月教授のNERVと葛城大佐、赤城博士率いるWILLEとの戦いは旧世代と新世代の世代間闘争のようにもうつる。また、詳しくは語られなかったが、EVAのパイロットたちはEVAの呪縛で14歳の姿のままである。さらに主人公はアスカから「ガキ」「また自分の事ばっかり」と罵られ、マリからは「男だろ!」「ちょっとは世間を知りな!」と叱咤される。
NHKのトップランナーという番組で、かつて庵野監督は旧劇場版について、以下のように発言している。

「ええ。現実逃避の”よりしろ”とか、後は現実からそこに逃げ込む”装置”みたいなモノにされつつあるのが、見ていて嫌だったんです。映画になった時 (97年に劇場公開)は、元々そういう予定だったんですけれど、お客さんにはとりあえず水を被せて、何か目を覚まして帰って欲しい・・・そういうのがあり ました。僕にとっては、それも”サービス”なんですよ。お客さんにとっては良い事だと思うんで。あのまま、居心地の良い所にずっと居て、それも一つのサー ビスだと思うんですけれど、エヴァの場合はそれをもうやっちゃいけない気がしたんですよ。少なくとも目を覚ますキッカケみたいなモノを入れなきゃいけな い・・・それがお客さんにも良い事なんだろうと云う事で、最後はそういう事をやっていましたけれど。僕にとっては、それも”サービス”なんですよ」
庵野秀明 in トップランナー【3】(神崎のナナメ読みより)

新劇場版においても同様のスタンスであるのだろうと思う。庵野監督の作品に限らずGAINAX作品にはそのような傾向があると思う。「アニメだけ見てるやつにアニメは作れない」そういう自負を感じるのだ。新劇場版での冷や水の浴びせ方が、旧劇場版のそれと違った形になることを強く望みつつ、拾いきれなかった考察の材料を拾いに、Qを見にあと2回は劇場に足を運ぼうと思う。偉そうに考察してみたものの、私もこの物語の端っこすらつかめていないのである。

次回作でエヴァンゲリオンも一応の完結を見ることになる。、この物語の結末がどこへ向かうのか、Qの余韻が覚めるまではそわそわした日々が続く。次回作まであと何年待つことになるのだろうか。辛抱強く待つしかない。

言い忘れたが、私は断然、マリ派である。ああいう生き方にあこがれるのだ。

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